簪(かんざし)            昭和16年(1941年)

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スタッフ

監督:清水宏
製作:新井康之
脚本:長瀬喜伴
撮影:猪飼助太郎
音楽:浅井挙曄

キャスト

恵美 / 田中絹代
納村 / 笠智衆
片田江 / 齋藤達雄
お菊 / 川崎弘子
広安 / 日守新一
その妻 / 三村秀子
老人 / 武田秀郎
太郎 / 横山準
宿の亭主 / 坂本武
番頭 / 松本行司

製作国: 日本 大船撮影所作品
配給: 松竹


あらすじとコメント

日本映画の隠れたる名匠の清水宏。完全に忘れ去られた感があるが、少しでも広めていきたい監督のひとりだ。

山梨県、身延山に近い下部温泉。とある宿に身延詣でに来た一行の中に恵美(田中絹代)とお菊(川崎弘子)がいた。彼女らは一泊すると身延山へと向かった。

その宿には、病気療養中の文学者片田江(齋藤達雄)や、若旦那(日守新一)夫婦ら多くの湯治客がいて、昨晩の団体の品のなさを嘆きながら朝風呂に浸かっていた。すると傷痍帰還兵の納村(笠智衆)が、突然大声を上げた。露天風呂の湯底にあった簪が足に刺さって怪我をしてしまったのだ。偏屈な片田江は、ことを大袈裟にして宿側の監督不行届だと騒ぎだす。しかし、当の納村は、簪は女性のものだし、これも情緒があって良いと笑うのだった。

その日の午後、簪を落としたので、もし見つかったら預かっておいてくれという電報が入る。すると今度は片田江先生が、その女性をここへ呼びつけて謝罪させるべきだと騒ぎだす。その一方で、文学者らしく、相手が若くて美人だと納村のためにも良いのだが、と言いだす始末。

いったい、どんな女だろうと各々が思いを巡らせていると恵美がひとりでやって来て・・・

山奥の温泉地を舞台にした情感溢れる秀作。

原作は井伏鱒二「おこまさん」に収録されている『四つの浴槽』。

夏の避暑地である温泉に逗留する人々。現在と違い、テレビはおろかラジオなどの一切の娯楽がない自然に囲まれた場所。実にゆったりとした時間が流れている場所だ。

当然そこにいる人々は毎日が同じことの繰り返しで皆、飽き飽きしている。そこに客の一人の足に簪が刺さって怪我をするという事件が起きる。彼らにとって、それは非日常的な大事件となる。

自分は他の湯治客とはレベルが違うと常に上から目線で他人を見下す学者先生が、あまりにも暇すぎるのでわざと、ことを大袈裟にしていくという展開。

その嫌な奴を演じる齋藤達雄のコメディ演技が秀逸。少々でも、他人を気遣う湯治客たちの言動に先生は、ことごとく神経質そうに反論する。そんな先生に迷惑しながらも、そこは昔の日本人。自分の主義主張を声高に叫ばず、結局、流されていく。

その昔風な人間気質同様に、ゆったりと流れる空気感が実に心地良い。

娯楽もなく楽しみもない。ただただ朝から風呂に入り、食事を摂り、午睡してまた風呂に入る。

それを象徴するシーンがでてくる。祖父に連れられてきている小学生が夏休みの宿題の日記を早々に最終日まで書き上げてしまう。何故なら、毎日が同じことの繰り返しで何ら変化がないからだ。擦れてなく、実に微笑ましい少年像だと感じた。

だから、主人公の女性がやって来るだけで大騒動になる。しかもその若い女性も何やら問題を抱えている風情で、謝罪した後も東京へは戻らずに、そのまま湯治客として居残っていく。

こういった何も大層なことが起きないという展開は同じ松竹の名監督小津安二郎に通じるものがあると感じるし、清水監督独自のわざと、ゆっくり流していくリズム感は山田洋次の「男はつらいよ」シリーズへと繋がるとも感じる。これが松竹という映画会社の気質だろう。

幸いなことに本作は最近DVDが発売された。それは、やはり清水監督の大傑作「按摩と女」(1938)をリメイクし今週末に公開される、草なぎ剛が主演している「山のあなた 徳市の恋」(2008)の宣伝を兼ねているからだろう。新作の予告編を見る限り、清水のオリジナルを忠実に再現していると感じる。ただ、未見なのでどこまで面白いかは判断しかねるが。

本作と同時に「按摩と女」、「有りがたうさん」(1936)も発売されたので、併せて見るのも一興かと思う。

殺伐とした現代社会で、これほどゆっくりとした展開を見せる映画に身を委ねるのは、最高の贅沢だと思うし、本来、日本人が持っていた生活のリズム感を垣間見る絶好のチャンスだと思う。

確かに感性は人それぞれだ。中には間違いなく、古過ぎる上に起伏もないので、つまらないと感じる御仁もいらっしゃるだろう。しかし、70分という上映時間だ。

そのぐらいの人生の時間、無駄にしたって構わないじゃないか。

余談雑談 2008年5月19日
今回の都々逸。「思いおもわれ 積りしはては 求めた苦労とあきらめる」 最後の「あきらめる」は、別れるという意味ではないだろう。多分、これは愛人の立場の女性が詠んだ句だと思われる。妻子持ちに惚れた自分にも非がある。ゆえに『日陰の女』として生き