スタッフ
監督: キャロル・リード
製作: ジェリー・アドラー
脚本: クレア・ハッフェーカー
撮影: フレッド・ケーネカンプ
音楽: マーヴィン・ハムリッシュ
キャスト
フラップ / アンソニー・クィン
ロボ / クロード・エイキンズ
スノーフレイク / トニー・ビル
ドロシー / シェリー・ウィンタース
ミスター・スミス / ヴィクター・ジョリー
ライオンズ / ドン・コリア
ラファーティ / ヴィクター・フレンチ
シルヴァー・ダラー / アンソニー・カルーソ
アン・ルッキング・ディア / スザーナ・ミランダ
日本公開: 1972年
製作国: アメリカ J・アドラー・プロ作品
配給: ワーナー
あらすじとコメント
引き続きキャロル・リード監督作品。イギリス映画界の巨匠が初めてアメリカで撮った異色作。
米南西部、ある先住民居留地。そこに服はボロボロで大酒飲みだが、気高く誇り高い、通称『フラップ』と呼ばれるフラッピング・イーグル(アンソニー・クィン)がいた。厭世観と絶望感から、生きているのではなく、ただ、そこに存在しているという仲間たちに彼は日々、誇りを取り戻せと言って回っていた。
そんな彼に嫌悪感を露わにして、ことごとく対立してくるのが白人とインディアンのハーフのラファーティ警部(ヴィクター・フレンチ)だ。しかも警部は、フラップのみならず、他の居住者たちにも横暴だった。それでもじっと耐える居住者たち。何とか居住地の窮状を訴えようと、ジャーナリスト志望で正義感の強いスノーフレイクらと新聞社に掛け合うが、相手にしてもらえない。
そんなある日、居留地に住む病弱の少女に道路監督官のライオンズ(ドン・コリア)が、意地悪を繰り返すのを見かねたフラップが、遂に彼に殴りかかってしまい・・・
不思議なティストで綴る先住民たちを描く人間ドラマ。
西部劇が衰退して久しい。それは遥々海外から成功を夢見てやって来た開拓者たちが正義であり、元々いた先住民であるインディアンが悪という単純明快な作品が多かったからだ。しかも、後発組である自分たちの夢と希望を打ち砕く野蛮人として徹底的に悪役として描かれてきた。
しかし、泥沼化していたヴェトナム戦争の影響で歴史認識なども変わり、価値観も変化していた時代。常勝国としてのアメリカが、朝鮮、ヴェトナムと代理戦争として参戦しながら負け、映画界でもアメリカン・ニュー・シネマという新ジャンルが台頭していた。
丁度その過渡期に作られた作品。本作では誇り高い民族として、逆に白人たちが意地悪で無関心という立場から作った。しかも、そういった内容の作品を「落ちた偶像」(1948)、「第三の男」(1949)、「文なし横丁の人々」(1955)などを輩出してきた巨匠でありながら、一作もアメリカで撮ったことがないイギリス人監督のキャロル・リードに託す。
深謀遠慮なる思惑が見え隠れすると感じながら見た記憶がある。なぜなら、アメリカ人の監督で、まして、西部劇を撮ってきた監督ならば、自己否定か、贖罪の感覚かと思われるだろうし、更に西部劇ファンの白い目を感じるだろうから。
映画としては社会派と呼べるジャンルに入るだろうが、サスペンスが得意なリード監督の手に掛かると、些か不思議なティストに仕上がった。
ただし、秀作かというと首を立てには振れないのだが。何故なら、既に監督は、晩年で往年の力はない。しかも、ハリウッドなり、アメリカの映画製作は性に会わないと言ってきたのだ。まったく異端児としてアメリカに渡って、撮りあげた作品なのだ。
しかし世界的名声を持つ巨匠である。作品を通してみて、やはりアメリカ映画でもないし、かといって、イギリスのティストがあるわけでもないのだ。
それでも、何とか見られるのは、ひとえに主演を演じたアンソニー・クィンの魅力だろう。ギリシャ人やイタリア人といった様々な役を演じてきたが、そもそもは悪役のインディアンでデビューした俳優である。しかも、彼自身、メキシコ・インディアンの血を引いている。実に小汚くアル中だが、バイタリティ溢れるタフな役どころを嬉々として演じている。
機関車強奪のシーンでは、馬でなく車で追跡するわ、ヘリコプターを投げ縄で墜落させるわというコメディ要素もあり、バランス配分はちゃんとしている。
ただし、どうしてもB級の印象は拭えない。そもそも日本では二本立てのスプラッシュ公開だし、日本はおろか、アメリカでもDVDなどは発売されていない。
それでも、一応のキャロル・リード作品であるので、何とか再見してみたい。