スタッフ
監督: ジョン・フォード
製作: ウォルター・ウェンジャー
脚本: ダドリー・ニコルズ
撮影: グレッグ・トーランド
音楽: リチャード・ヘイグマン
キャスト
オルセン / ジョン・ウェイン
ドリスコル / トーマス・ミッチェル
スミッティ / イアン・ハンター
コッキー / バリー・フィッツジェラルド
船長 / ウィルフレッド・ローソン
ヤンク / ワード・ボンド
アクセル / ジョン・クァーレン
フリーダ / ミルドレッド・ナットウィック
ディヴィス / ジョセフ・ソーヤー
日本公開: 1949年
製作国: アメリカ J・フォード・プロ作品
配給: ユナイト
あらすじとコメント
引き続き名匠ジョン・フォードとジョン・ウェインのコンビ作。だが、西部劇でなく船乗りたちの心情を描いた話。
第二次大戦初頭。フランスがドイツに降伏した直後の中南米のとある島。
商船グレンケアン号が、ニューヨークへ向かう途中で寄港していた。しかし、船長は上陸許可をださず、仕方なくヴェテランの船員ドリスコル(トーマス・ミッチェル)が、島の物売りの女性たちに酒を忍ばせて乗船させた。ずっと海上暮らしで酒と女に飢えていた船員たちは、すぐさまドンチャン騒ぎを始めた。船長はニューヨークでの積荷が高性能爆薬だったので、情報が洩れることを恐れていて、少しは目こぼししようと思っていたが、あまりの大騒ぎに中止を命じざるを得なかった。
船は欲求不満のみが残る船員たちを乗せ、やがて、ニューヨークに到着。そこで初めて、積荷が何であるかが船員たちに知らされるが、またもや、上陸許可が下りない。皆、動揺するが、この航海を最後に故国スウェーデンへ帰り、牧場を営もうとしているオルセン(ジョン・ウェイン)のためにも、頑張ろうとドリスコルが皆を励ました。
しかし、船員のひとりが夜陰に乗じて下船してしまって・・・
荒くれだが孤独な海の男たちの日常を描く作品。
原作はユージン・オニールの戯曲。アメリカが参戦する前で、母国イギリスが苦戦を強いられていた船員たち。アイルランド人がほとんどだが、長い間航海を続けているので、世情には疎い。
そんな彼らは、陸が嫌いだとうそぶく。だが、陸地に近付けば土の匂いがする、と愛しそうに呟く。結局、誰もが陸では居場所がないのだ。
様々な荷物を載せ、つらい航海を続け、稼いだ金は酒と女につぎ込み、また船に乗る。そういう人生しか送れない孤独な男たち。
そんな中、主人公はじっと金を貯め、故郷に錦を飾ろうとしている。仲間からすれば、帰れる場所があるだけで羨ましく、何とかちゃんと送りだしたいと願う。しかし、今回の航海は武器を一切、保有しないままドイツ軍がウヨウヨいる海域を通過しなければならない。いつも以上に緊張が走るのだ。
そんな中で、事故で重傷を負う者やスパイと疑わしき仲間がでてくる。しかし、陸地は遠く、ちゃんとした医師や応援は呼べず、航海を続けなければならない。不味くていつも同じような料理を食べ、シンガポールやアルゼンチン、南アフリカなど世界中を旅した思い出を語る男たちの姿が切ない。
フォード監督はそういった孤独な男たちを気高く謳い上げる。手馴れた感じで、流石のジョン・フォードと安心して見ていられるが、監督の作品としては異色である。
それは彼が大好きな、雄大な西部と違い、広がりを見せるロケはなく、ほとんどが狭い船内でのドラマで、かつ、海上シーンがすべて合成だからだろうか。
ただし、これはフォード作品にしては、という前提が付く。前回紹介した「駅馬車」(1936)と比べるとまったくスピード感が違うし、もう一本の有名作「荒野の決闘」(1946)の詩情溢れるリリシズムとも違うからである。
更にフォードらしくないと感じさせるのがグレッグ・トーランドのカメラ・ワークである。サイレント期のドイツ表現映画を思わせる画面構成。また、名前こそ天下のジョン・ウェインが主役だが、今回はどうにも影が薄いと感じたし、「我が道を往く」(1944)の名優バリー・フィツジェラルドなどが出演しているが、彼らの才能を十二分にだし切れていないとも感じた。
だが、製作された時代を考慮に入れるべきだろう。まだ、アメリカは参戦してはいなかったが、監督の祖国アイルランドは、ドイツと交戦状態だった。そういった中、戦意高揚映画でもなく、反戦映画でもないという作劇。
つま り、そのどちらにも付けない寂しい男たちの挽歌として見れば、監督の歯がゆい心情が投影されていると感じられよう。