スタッフ
監督: ジーン・ネグレスコ
製作: フランク・ロス
脚本: マール・ミラー
撮影: ミルトン・クラスナー
音楽: ヒューゴ・フリードホッファ
キャスト
エドウィーナ / ラナ・ターナー
サフティ / リチャード・バートン
ランサム / フレッド・マクマレイ
ファーン / ジョーン・コールフィールド
エスケス卿 / マイケル・レニー
大公妃 / ユージニー・レオントヴィッチ
サイモン夫人 / グラディス・ハートバット
スマイリー夫人 / マッジ・ケネディ
アドアーニ / カルロ・リッツオ
日本公開: 1956年
製作国: アメリカ 20世紀フォックス作品
配給: 20世紀フォックス
あらすじとコメント
洪水のスペクタクル・シーンがクライマックスに登場する映画。だが、メインは人間模様である。
インド、ランチプール。イギリスの貴族エスケス卿(マイケル・レニー)とアメリカ人の妻エドウィーナ(ラナ・ターナー)夫妻が、雨季直前の街にやってきた。
卿は無類の馬好きで、ここの王妃の馬を買い求めにきたのだ。だが、卿は妻の金目当てで、妻は夫の爵位が欲しいだけの仮面夫婦だった。しかも、エドウィーナは、勝気で奔放な女性だったので、数々の浮名を流してきた女だ。
ランチプールには、エドウィーナの幼馴染みでアメリカ人のランサム(フレッド・マクマレイ)と、酒浸り気味の彼に興味を持つ若いファーンらがいて、王妃主催の晩餐会で一同が再会した。
しかし、その晩餐会にインド人で王妃の寵愛を受け、イギリスで医学を学び、独立運動の志士として投獄された経験もあるサフティ(リチャード・バートン)が来場したことから、エドウィーナの目つきが変わって・・・
いかにも往年のハリウッドらしいスペクタクル・ラブ・ロマンス作品。
独立直後のインドという異国情緒溢れる場所に参集する訳ありな人間たち。登場人物は、時代性を感じる性格設定で、典型的な『グランド・ホテル形式』で進行していく。
原作は1927年にピューリッツア賞を受賞したルイ・ブロムフィールドの「雨季来たる」で、本作は「雨ぞ降る」(1939)として、映画化された作品のリメイクである。
つまり、今から80年以上も前の原作なので、登場人物たちは当時としては進歩的な設定であったが、現在では、かなり定型的という印象。
主人公であるアメリカ女性は、凄まじいまでの『自己』を持ち、己の欲望のためには他人を踏みにじっても生きて行くという非常に強い女性として描かれる。
まるで「風と共に去りぬ」の主人公スカーレット・オハラかと感じた。しかも、スカーレット以上に、自分の欲望をストレートに表し、数々の浮気をしても、それが許されるという身勝手激情型。
そんな彼女の実情を知りながら、『紳士』として結婚生活を続ける夫。逆に、同じ女として、彼女を忌み嫌う年老いた王妃。また、主人公とは幼馴染みで、厭世観から僻地へ篭って、酒浸りになりながらも、悠々と暮らす自由人の男も登場する。
皆、主人公の性格を知っている人物という設定だ。そんな主人公が、この地で選んだのがハンサムな医師。
観る側の予想通り、大甘メロドラマとして進行する。ただ、それだけでは妙味に欠けるので、地震とそれによるダム決壊という、スペクタクル・シーンが登場する。確かにその場面は、当時としては斬新で、派手だし、見応えは充分である。
だが、いかんせん進行がまどろっこしいのだ。その災害により、怪我を負う人間や、人生の価値観が変わっていく人間もでてくるという設定も、今見ると鷹揚というか、素直過ぎるというか、首を傾げたくなる部分もある。
しかし、それは時代というものだろう。逆に現代では、人物の性格設定などをヘンにいじり回して、主題がボケてしまうだろうなとも感じた。
役者たちも演技は上手いが、どうしてもインド人には見えないリチャード・バートンなど、皆が大時代的大芝居で鼻白むが、その中でも、自由人を演じた、フレッド・マクマレイだけは、儲け役だと感じた。
今のCGとは違う、手作り感に溢れたスペクタクル・シーンや豪華な衣装やセットなど、いかにも往年のハリウッドを感じさせてくれる作品ではある。