昨日・今日・明日 – IERI,OGGI,DOMANI(1963年)

メルマガ会員限定

画像を表示するにはメルマガでお知らせしたパスワードを入力してください。

スタッフ

監督: ヴィットリオ・デ・シーカ
製作: カルロ・ポンティ
脚本: チェザーレ・ザバッティーニ、ヴィラ・ヴィッラ 他
撮影: ジゼッペ・ロットゥンノ
音楽: アルマンド・トロヴァヨーリ

キャスト

アドリアーナ、アンナ、マーラ / ソフィア・ローレン
カルミネ、レンゾ、ルスコーニ / マルチェロ・マストヤンニ
パスクアーレ / アルド・ジュフレ
弁護士 / アゴスティーノ・サルヴィエッティ
アメディオ / リーノ・マッティラ
男 / アルマンド・トロヴァヨーリ
ウンベルト / ジョヴァンニ・リドルフォ
祖母 / ティーナ・ピーカ
祖父 / ジェナーロ・ディ・グレゴーリオ

日本公開: 1964年
製作国: イタリア・アメリカ エンバシー作品
配給: 日本ヘラルド映画

あらすじとコメント

前回の「ボッカチオ’70」(1962)の製作者カルロ・ポンティ。その中のひとつの挿話を作ったヴィットリオ・デ・シーカ監督とソフィア・ローレン。そこにマルチェロ・マストロヤンニが絡んで、やっぱりオムニバス。

「第一話」イタリア、ナポリ。裏町に住む失業中のカルミーネ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、家族を養うために闇タバコ販売をしている妻アドリアーナ(ソフィア・ローレン)に科せられた罰金を徴収に来た執行官を追い返した。意気揚々とする彼に、弁護士が、次は警察が来て逮捕されると告げたから、さあ大変。

何とかしようと相談すると、妊婦は対象外で、産後半年までは執行停止になると聞きだした。偶然、アドリアーナが妊娠中だったので喜ぶが、出産後半年経てば逮捕される。

そこで、夫婦は・・・

3タイプの男女の関係を描くオムニバス作品。

三話それぞれの主役をローレンとマストロヤンニが演じている。

「第二話」は、ミラノの有閑夫人が、しがない記者に恋をするが、という内容で、「第三話」が、ローマのアパートに住む売春婦に入れ揚げる放蕩息子と隣に住む神学生の人間模様を描く。

先ず、本作で真っ先に感じるのはデ・シーカ監督が明け透けな人間賛歌を謳いつつ、非常にシニカルな視点による表現をしているということ。

『イタリア』の中で、いかにもゴミゴミとして貧乏人や泥棒が多い下町という印象のナポリ。その真逆で、近代的で金持ちが住むイメージのミラノ。地理的にもイメージ的にも、双方の中間であるローマ。

そんな世界中の人間が持つステレオ・タイプそのものをイメージ通りに描き、登場する男女も、「上流」「中流」「下流」の生活レベルの具象化であると印象付ける。しかも全話に共通するのは『セックス』である。

それを明け透けな会話や表現で進行していく作劇。解りやすいといえば、これほどストレートに『セックス』を「艶笑譚」として描く監督も少ない。

しかし、単なるピンク映画ではなく、「優しさ」や「憐れみ」というカソリックの総本山を持つ国の人間らしさと、ラテン気質の『ケ・セラ・セラ』と『バイタリティ』という、一見、相反する視点が両立する『大らかさ』が匂い立つ。だが、その奥にある「冷たさ」も尋常ではないと感じた。

通常、オムニバスというと、それぞれの挿話が、大体同じ時間で完結するセオリーがあるが、本作では第一話の「ナポリ」と第三話「ローマ」が50分前後と長く、真ん中の「ミラノ」が半分以下の20分という時間配分である。

その奇妙なアンバランスが意図することは何であろうか。

更に興味深いのは、メイクや衣装を変えてはいるが、何故、同じ役者二人に、まったく違う役柄を演じさせたのか。

そこに『「イタリア」という国の生い立ち』が横たわっていると感じた。

かつて別々な国の集合体であり、それを『ひとつの国家』として無理矢理に統一したが、それぞれの地元住民たちには、関係ないことであり、それが、逆に郷土愛を増長させ、更に『個人』は、またまったく別であると確信させた。

しかし、何やかや言っても、所詮、とどのつまりは「男女の営み」である。だからこそ本作はほぼ、ステレオ・タイプのイメージの街と人間性をその通りに描きながら、実はバランスは均等ではない地域格差を各話の時間配分によって示し、男女間の欲望は同じであるから、同じ俳優に演じさせたのではないかと推察した。

しかも描かれる順番も南のナポリから、北のミラノへ行き、最後に真ん中のローマに行き着く。

更には、第三話で重要な鍵を握るのは、神学校の真面目な生徒である。周知の通り、ローマには総本山バチカンがあるのに、通っている神学校は、そこではなく、ミラノを州都とし、スイスと隣接する北西部の「ロンバルディア州」。更に、放蕩息子はミラノとローマの中間にあり、人口はイタリア第三位でありながら、観光地としては今ひとつ認知度が低いボローニャから通っているという設定だ。

もっと挙げれば、『標準的イタリア語』の源となっている「フィレンツェ」や、観光立国「ベネツィア」が扱われないのにも意味があると思われる。

しかし、色々とイタリア自体を考えると一番、深謀遠慮なることは、タイトルそのものだろうか。

余談雑談 2010年4月10日
先立て、気温が20℃近くまで上がった午後。散り始めた櫻の花びらを受けながら、数週間ぶりに3キロ先の酒場へ徒歩で向った。 いつものように、わざと路地を選んで歩いた。時折、低い家の上から降り注ぐ西日に、随分と陽が伸びたな、と眼を細めた。 歩きな