スタッフ
監督: ヴィットリオ・デ・シーカ
製作: カルロ・ポンティ、ジョセフ・レヴィン
脚本: レナート・カステラーニ、トニーノ・グエッティ 他
撮影: ロベルト・ジェラルディ
音楽: アルマンド・トロヴァヨーリ
キャスト
フィルメーナ / ソフィア・ローレン
ソリアーノ / マルチェロ・マストロヤンニ
アルフレード / アルド・プグリージ
ロザリア / テクーラ・スカラーノ
ディアナ / マリル・トーロ
ウンベルト / ジョヴァンニ・リドルフィ
リカルド / ヴィート・モリコーニ
ミケーレ / リカルド・コルティーニ
母親 / ヴィンチェンツァ・ディ・カプーニ
日本公開: 1965年
製作国: イタリア C・ポンティ・プロ作品
配給: 日本ヘラルド
あらすじとコメント
今回もデ・シーカ監督とソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニのコンビ作。前回の「昨日・今日・明日」の直後に製作されたナポリ男の身勝手な恋愛観を描く。
イタリア、第二次大戦下のナポリ。連合軍の上陸も間近に迫ったある晩。
娼館に遊びに来ていたソリアーノ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、連合軍の空襲で恐怖に震える入店間もないフィルメーナ(ソフィア・ローレン)と知り合った。まだ、あどけなさが残る彼女に優しく接するソリアーノ。
時は流れ、戦後。闇商売をしているソリアーノに、バスから声を掛ける、お色気ムンムンの女がいた。いぶかしがる彼に、自分はフィルメーナだと名乗った。
娼婦としての貫禄が付き、しかも成熟した女になっていた彼女に、ソリアーノは・・・
男の身勝手さに翻弄されても逞しく生きる女性を描く喜劇。
遊び人のドンファン。しかも、チャッカリもしていて、テキトーにヤバいことをしても金を稼ぐ男。「井の中の蛙」ながら、世界の中心と思っている男だ。それでいて、女性にモテるから余計、始末に悪い。
そんな男に惚れる娼婦。男は自分に惚れていることを知っているから、徹底的に利用する。しかし、結婚はしない。
何故なら、当時イタリアでは、ひとたび結婚すれば、生涯、離婚出来なかったからである。
男の立場からすれば、実に「都合の良い女」だ。理解できなくもない設定である。中には、そんな男になりたいと願う御仁すらいるやも知れぬ。
本作はそんな秘めたる願望を持っていたであろう、当時の多くの男性たちのために作られた映画であると感じた。
しかも相手は、『娼婦』である。遊び相手として、不足はなかったのであろうか。
この手の映画が日本を含め、世界中で多く作られたことからも、いかに「男尊女卑」的発想が跋扈していたかも窺い知れる。ただ、その殆んどが「悲劇」として終焉するのだが。だが、そこが、イタリアだと事情が違ってくる。
他の諸国と違うのは、そのストレートなるバイタリティ。それは男女共、同じである。
「タフ」とか「強さ」というニュアンスとは違う、「バイタリティ」である。
それは作劇にも如実に反映される。
何故、女は「ヒモ」のような男に惚れ続けるのか。男は何故、ヒロインとは別の女性にモテるのか。そこいらの『かゆい所に手が届く』ようなシーンは、一切登場せず、端折られる。
男はヒロインを、時には「恋人」、ある時は「女中」、またある時は「稼ぎ手」として接する。出自が『娼婦』だからなのか。一方で、ヒロインは、当然、結婚を夢見る。そんな関係が20年も続く展開。
しかし、女性は強いのである。だからこそ、ファム・ファタールが登場するハード・ボイルド映画も存在するし、駆け引きを絶妙に展開させるラブ・サスペンス映画も存在意義がある。
しかし、本作はイタリア製コメディである。字もロクに書けない娼婦が、入籍を夢見て策謀する。しかし、所詮、浅知恵。そこで開き直るのも直情型で、バイタリティに溢れている。
だが、逆にそこに妙なウエット感が発生し、こちらに纏わり付いてくる。
それこそが、イタリア的なのだ。決して、アメリカ的ドライさはなく、「家族」や「マフィア」に繋がる『血』の強さでもあると感じた。
言い換えれば「バタ臭さ」。しかも、やがて哀しきという展開を見せるのは、日本における大阪系新喜劇に近いかもしれない。
決してスマートさもないし、大笑いできる単純さもない。だが、人間の『営み』と『繋がり』を喚起させてくれる作品ではある。
そんな本作に対し、現代に生きる人間は何を見いだすのであろうか。もしくは、「ツマラナイ」と一蹴されるのだろうか。