スタッフ
監督: アラン・レネ
製作: アラン・ケフロー
脚本: ホルヘ・センプルン
撮影: サッシャ・ピエルニー
音楽: ジョヴァンニ・フスコ
キャスト
コシノール / イヴ・モンタン
マリアンヌ / イングリット・チューリン
ナディーヌ / ジュヌヴィエーブ・ビジョルド
ジュード / ドミニック・ロザン
ロベルト / ポール・クロシェ
イヴェット / イヴェット・エアィヴァン
ジュード夫人 / アヌーク・フェルジャ
連絡員 / ジャン・ダステ
刑事 / ミシェル・ピッコリ
日本公開: 1967年
製作国: フランス ソフラシマ作品
配給: 東和、ATG
あらすじとコメント
前回同様、ある意味で『戦争』を扱った作品。共通するのは「戦後の個人の戦い」であり、別な視点で言えば「アナーキスト」の話。
スペインーフランス国境。1965年4月のことである。25年前、スペイン内乱を避け、フランスに亡命したコシノール(イヴ・モンタン)は、40歳になった今、『革命家』として、未だに反フランコ運動に加担していた。
そんな彼は、スペイン国内で「反フランコ」勢力の一斉検挙が始まり、彼らが画策していた大規模ストライキ計画に影響がでると、パリの仲間たちに伝えるべく、仲間と二人で潜入先のスペインから車で国境を越えようとしていた。
しかし、国境で、単に旅行者と名乗る彼らの姿に疑問を抱いた税関職員が呼び止めた。コシノールは、パリの家族の下へ帰るだけだというが、納得しない職員。仕方なく、パリの仲間の家に、家族を装って電話を掛けることにする。
しかし、応対にでたのが同志の娘ナディーヌ(ジュヌヴィーエヴ・ビジョルド)だったことから・・・
革命家の三日間の出来事を描く、ある意味、示唆に富んだ骨太作。
第二次大戦の前哨戦ともいわれた「スペイン内乱」。そして第二次大戦も終わってから20年が過ぎた時点の話である。
その時期でも、密かに祖国の政権を打倒しようと活動を続ける「左翼系革命家」。その価値観と姿勢は一貫している。
だが、どう考えても「負け犬」側の人間である。それでも自分の主義に命を賭している。そんな彼らが考えているのは武力による蜂起ではなく、「ゼネスト」等による民主的方策である。
それでも現政権は、彼らを逮捕するベく、一掃作戦にでた。
現代とは違い、通信手段も発達していなく、あくまで革命家個人が越境し、仲間に実情を伝えるしか手がない。一方で、パリにいる同志たちも、ある程度の情報しか持ち合わせていないが、自分たちの信じる主義信条を元に討論しようとする。
そんな中、主人公の今までの生き様や、自分の信条について思い悩みながら、自分を理解してくれている妻、同志の娘、かつての恋人といった女性との恋模様に浸っていく。
それをかなり凝った演出と監督自身の思い描く映像表現を駆使して展開させる。
このアラン・レネという監督は、難解な作品を多く輩出した人物だが、本作は彼の中では非常に解りやすい作劇であると感じる。
しかし、それでも、ちゃんとアラン・レネとしての作風を誇示し、確立しているのは流石である。
「作家性」という表現で例えるなら、1950年代から活躍した映画監督としては、最右翼に列せられると信じている。ただし、好きか嫌いかは別として、であるが。
それでも、白黒画面に焼き付けられた「精神的不安定さ」と「男としての生き様」を瞑想し、迷走する主人公の真情は、寒さを感じさせる田舎道やパリの街角といった、風情極まる背景の中で円熟していく。
主人公を演じたイヴ・モンタンの『男の色気』に感じ入るが、それでも、中年に差し掛かり、若者たちと共有する時間で、自分の人生を振り返らざるを得ない寂寥感は、イタリアの名匠ルキノ・ヴィスコンティとは、また違う、作風の中で、失われていく美学を喚起させる。