スタッフ
監督: ヴィンセント・ミネリ
製作: ベン・カディッシュ
脚本: ダルトン・トランボ、マイケル・ウィルソン
撮影: ミルトン・クラスナー
音楽: ジョニー・マンデル
キャスト
ローラ / エリザベス・テーラー
ヒューイット / リチャード・バートン
クレア / エヴァ・マリー・セイント
エリクソン / チャールス・ブロンソン
ヘンドリックス / ロバート・ウェッバー
ブラント / ジェームス・エドワース
トンプソン判事 / トリン・サッチャー
ロビンソン / トム・ドレイク
ダニー / モーガン・メイソン
日本公開: 1965年
製作国: アメリカ フィルムウェイズ・プロ作品
配給: MGM
あらすじとコメント
今回もリチャード・バートン主演作にして、前回の「イグアナの夜」と同じ役どころ。そして、タイトルも同じく『生き物』の名前が付いている。
アメリカ、カリフォルニア。太平洋岸のビッグ・サーに、木造の小さな一軒家があった。そこに住むのは売れない女流画家のローラ(エリザベス・テーラー)と9歳になる息子。だが反社会的なローラは息子を学校へ通わせず、自分の価値観で育てていた。
そんな奔放に育った息子は度々、違法行為を起こし、ついに判事から神学校で寄宿教育を受けるよう命じられてしまう。怒り心頭のローラは学校の校長であるヒューイット(リチャード・バートン)に会うと持論を展開し、罵ってしまう。
驚くヒューイットだったが・・・
聖職者と芸術家という価値観の剥離する同士の恋模様。
妻子のいる司祭と未婚で子供を産んだ女。簡単にいえば、「不倫ドラマ」である。しかし、根底に設定してあるのは『観念的概念』と『独立自治の自由性』との対比である。
タイトルの「いそしぎ」とは『磯鷸』とも書き、シギ科で体長20センチほどの鳥のことである。
本作でも、その「いそしぎ」が羽の折れた状態で登場してくる。つまり、主人公たちの心情をストレートに具象化したものとしての登場である。
野生の鳥が人間の手厚い保護を受けた結果、自らが『籠の鳥』ヘと変貌してしまう。以前、住んでいた外界が怖くなり、臆病になってしまうという設定だ。
主役の男女も然り。聖職者として、また教育者として美しい妻と二人三脚で学校を営む男。しかし、彼らを取巻く人間たちは、かなり俗物である。そのひとりが、テーラーを以前囲っていたという設定だ。当然、重要な鍵を握ってくる展開。
一方のテーラーは、男は自分の肉体のみが目的の生物で、真の愛情に枯渇している。そんな二人が反発しつつ、惹かれ合う。
『世紀のロマンス』と喧騒されたバートンとテーラー夫婦が結婚後、20数本持ち込まれた企画から初めて選んだ共演作でもある。それを知ってみると複雑な心境になる。
だが、脚本にダルトン・トランボが絡んでいるのが鍵だろう。彼は「赤狩り」でハリウッドを追われた人間。映画史上の名作「ローマの休日」(1953)の脚本家でもあるが、初公開時にはタイトルから彼の名前は消された経歴を持つ人物。
1960年の「栄光への脱出」で、何とか本名で復権した以後の本作である。ゆえに非常に示唆に富み、複雑な問題を提起する興味深い台詞が多くでてくる。ただし、「キリスト教」を一定以上理解していないと、やはり理解に苦しむ設定と進行ではある。それを映画の題材としてはありがちな「不倫ドラマ」になぞらせて描いている。
初の夫婦共演での不倫ドラマと単純に見ている観客も多かったに違いない。そういった観客には、不倫に走り、思い悩む司祭と初めて『男への愛』を感じた女の道行きに、一体どこへ向うのだろうかという落しどころに興味が湧く。その点は時代性もあろうが、『常識的』である。
しかし、前回扱った「イグアナの夜」と見比べてみると大変興味深い一面を覗かせる。製作年度はこちらの方が一年後だが、本作の『聖職者』役のバートンが、そのまま本作の舞台であるカリフォルニアから南下し、メキシコへ行き、更に人間として思い悩む姿に見事に重なる。
まったく関連性のない作品なのだが、本作を先に見てから続けて鑑賞すると、ある意味、聖職者といえ生身の人間であると痛感するだろう。
ただし、単品としてみると本作は、撮影が美しいことと、テーラー自身の女としての歴史に重なるキャラクター、それにアカデミー音楽賞を受賞した音楽が妙に残るだけの作品となるのだが。