スタッフ
監督: フィリップ・カウフマン
製作: ジェニングス・ラング
脚本: フィリップ・カウフマン
撮影: ブルース・サーティス
音楽: デイヴ・グルーシン
キャスト
コール・ヤンガー / クリフ・ロバートソン
ジェシー・ジェームス / ロバート・デュヴァル
ジム・ヤンガー / ルーク・アスキュー
クレル・ミラー / R・G・アームストロング
アレン / ダナ・エルガー
マニング / ドナルド・モファット
ボブ・ヤンガー / マット・クラーク
銀行員 / エリシャ・クック
クスタフソン / ロイヤル・ダーノ
日本公開: 1972年
製作国: アメリカ J・ラング作品
配給: CIC
あらすじとコメント
名優ロバート・デュヴァル。前回の「雨のなかの女」(1969)同様、コッポラ作品にしようかとも思ったが、敢えて別な監督の出演作にしてみた。その監督はフィリップ・カウフマン。
アメリカ、ミズーリ。南北戦争後の1876年、中西部一帯を荒らしまわり、あちらこちらで指名手配を受けていた強盗団がいた。ヤンガー(クリフ・ロバートソン)兄弟や、ジェシー・ジェームス<(ロバート・デュヴァル)らだ。しかし、彼らの出自は敗戦した南部に、北部資本の鉄道が延長され、強制的な農地没収から土地を取り返したことによって「強盗団」と呼ばれるようになったのだ。
そんな一団にミズーリ州議会は『恩赦』を与えようとしていた。しかし鉄道側は、金でその法案を握り潰そうとしていた。
一時は、廃業を考えたヤンガーだが、そんな懐柔行動に怒り、北部ミネソタの銀行を襲おうと計画を進めた・・・
クールでありながらペシミスティックなタッチで描く「西部劇」の挽歌。
制作当時、「アメリカン・ニュー・シネマ」が全盛であった。当然、西部劇も路線変更を余儀なくされていた。
本作で描かれるのは、アメリカ人ならば誰でも知っていて、数多くの映画で扱われてきた「無法者」たちである。そこに、既存とは違うティストを持ち込む。
冒頭のナレーションで、一般的には「悪党」だが、南部の農民たちからは、「英雄」として認知されていたとアナウンスされる。事実はどうかは知らぬが、まるで美談として扱われる、日本の江戸時代の有名「盗人」に重なると感じた。
映画は、そんな彼らを等身大の人間として描いていく。しかし、そこで描かれるのは、彼らの苦悩や自分探しを真っ向見つめるのではなく、どこか突き放した視点による随行的作劇。
そのスタイルは、様々な意味でリアルである。汚れて汗臭そうな服装に始まり、生活感に満ち溢れた市井の人間たちの点描。確かに、この時期、リアル感溢れる「西部劇」作品が多発された。しかし、新人であったフィリップ・カウフマン演出には、独自のカラーがある。
色調のトーンを落とした画面構成。彼らに寄り添うように描かれる日常の微妙な距離感。
そして、非常に印象的、かつ、暗喩的に登場してくる「野球」、「蒸気自動車」や「蒸気オルガン」といった、『新時代』を際立たせる道具類。
以前までの、娯楽西部劇の中で描かれてきたような、単なる明快で非道な「悪役」扱いで、倒されることにより、観客のカタルシスを喚起させるストーリィ的なメリハリはまったくなく、どこか歴史ドキュメンタリー的作劇。
その証左に、そもそもの主役は本来ならばジェシー・ジェームスだが、相棒役として描かれることが圧倒的に多かったヤンガーを据えるという深謀遠慮さ。
しかも、鉄道会社から追手として派遣されている有名な「ピンカートン探偵社」も、常に後手後手に回るというコメディ・リリーフ的な扱われ方で、どこか常に斜に構えた作品である。
それらは、彼らに感情移入をさせにくくしているとも感じる。ただし、「大資本スタイルへの疑念」や「プロではない自警団の追撃」など、社会派という側面もしっかりと描かれている。
そういった視点を挿入することが、当時の流行であったことが理解しやすいし、単なるメリハリ命の娯楽作でもなく、失われていく郷愁でもない。それ以上に、「乗り遅れた」寂寥感が漂う。
出演陣の中では、一番の悪役キャラだが、静かに演じ切ったデュヴァルが見事。それに当時の、若手からヴェテランに至るまで、名脇役が大挙して出演し、それぞれのキャラを存分に発揮させているのも、脇役ファンとしては嬉しい限りだ。
また、本作を見たクリント・イーストウッドが、ここでも扱った歴史的名作「アウトロー」(1976)で、カウフマンを監督にしようとしたのも頷ける。しかし、結局、カウフマンは脚本だけの参加と相成ったのだが。
両作共に、当時の「西部劇の挽歌」として刻まれるべき作品であり、チャンスがあれば双方を見比べると、両監督の「同一性」と「解離性」を強く嗅ぎ取れるだろう。