スタッフ
監督:スティーヴ・カーヴァー
製作:ロジャー・コーマン
脚本:ウィリアム・ノートン、フランセス・ドエル
撮影:ブルース・ローガン
音楽:ザ・グレート・アメリカン・ミュージック・バンド
キャスト
ウィルマ / アンジー・デッキンソン
バクスター / ウィリアム・シャトナー
ディラー / トム・スケリット
ビリー・ジーン / スーザン・セネット
ポリー / ロビー・リー
バーニー / ノーブル・ウィリンガム
ボニー / ディック・ミラー
ドッズ / トム・シノレッリ
ジョンソン / ローヤル・ダーノ
日本公開: 1976年
製作国: アメリカ N・W・ピクチャース作品
配給: 富士映画
あらすじとコメント
今回も、大不況の1930年代を背景にした作品で繋げた。だが、渋い肉体アクションでもなく、音楽で民衆を勢い付けようとしたシンガーの人間ドラマでもない。今回は、ズバリ、「ギャング」だ。しかも女性の。
アメリカ、テキサス。1932年、とある田舎町の教会で結婚式が執り行われようとしていた。ところが新婦の母親ウィルマ(アンジー・ディッキンソン)が異を唱えた。たかが16歳で、大した相手でもない農夫の息子と結婚しても将来は暗いと。
ウィルマは次女ビリー・ジーン(スーザン・セネット)と、新婦である長女ポリーを連れ、列席していた従兄と逃げだした。しかし、この叔父は酒の密売人で、三人を乗せたまま途中で、当然のように取引に向かうような男であった。だが、密告を受けたFBI二名の待ち伏せに遭い、叔父は射殺される。
どうせ、ロクでもない大不況の世の中だと、ウィルマは、叔父の密売を継ぐ決心をして・・・
コメディから、エロティック要素も満載で進行する、着想が面白いB級映画の一品。
母親と奥手の長女、発展家でトッぽい次女という母娘三人。父親は、死んでいる。
不景気だし、貧農の息子などに娘をやれるか、と結婚式の最中にキャンセルを言い渡す、威勢の良い母親。「気風が良い」とか、「肝っ玉が坐っている」とかの類ではない。しかも、お色気ムンムン。
そんな母娘が逃げだすときに相手側の車で逃げたところから、方向性が決まる。つまり、盗みなどお構いなしという価値観の母親が主人公だ。そのDNAを引いた娘二人。
そんな母娘は、禁酒法時代に、死んだ従兄の代わりに酒の密売で稼ごうとするが、所詮は、素人の浅はかさである。
当然、警察からも目を付けられる。もう、こうなったら、と次々と犯罪をエスカレートさせて行く。
そこに男が二名加わって来て、妙な「似非家族」的、淫らな関係が出来上がる。
ある意味、完全なる背徳的設定の「成人ピンク映画」である。しかも、登場する女優陣は全員がフルヌードを披露するというサービス精神に富んだ展開でもある。
何といっても、本作で一番、重要なことは制作がロジャー・コーマンという点。
あちらにヒットしたホラー映画があればパクり、こなたに人気の戦争映画を見つければ、『柳の下のドジョウ』を決め込んで低予算のB級映画としてパクる。
ある意味、お見事な人物。しかし、そんな彼の手によって発掘された人材はジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロから コッポラまでと、数多く多彩。
実は本作はコーマン自身が’50年代に実在した母子ギャング団をモデルにして、制作した「血まみれギャングママ」(1969・未)のセルフ・リメイクである。だが、今回はコーマンは監督せず制作のみである。監督には弱冠26歳のスティーヴ・ガーヴァーを抜擢した。
このあたりも彼の独特の勘というかセンスが光っていると感じる。内容は「俺たちに明日はない」(1967)を連想させるし、しかも当時、ハリウッドのメジャー系で流行していた、俗に言う「ノスタルジー映画」の1930年代の設定でもある。
ここまでパクると、ある意味、イタリア映画とはまた違う「天晴れ」感がある。それでいて、クダラナイ映画だが「ツマラン」作品ではないのである。
そこに何とも言えぬ微妙な「ビジネス・センス」が漂う。
本作も然り。低予算を感じさせつつ、どこか、ぶっきら棒な作風が、大不況下という殺伐とした時代の妙な侘しさ感が増幅され、逆にリアリティがある。
段々とエスカレートして行く犯罪スタイルも大雑把さと寂寥感がマッチして何とも言えぬグロさがあり、チープながらも、こじんまりとまとまってはいる。
評価に値するのような佳作ではないが、妙に気になるエロいアクション作と言えようか。