スタッフ
監督:ピーター・ハイアムス
製作:リチャード・A・ロス
脚本:ピーター・ハイアムス
撮影:ステーフン・ゴールドブラット
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
キャスト
オニール / ショーン・コネリー
シェパード / ピーター・ボイル
ラザラス / フランセス・スタンハーゲン
モントーン / ジェームス・B・シッキング
キャロル / キカ・マーカム
バラード / クラーク・ピータース
サガン / スティーヴン・バーコフ
ターロウ / ジョン・ラーツェンバーガー
ポール / ニコラス・バーンズ
日本公開: 1981年
製作国: アメリカ ザ・ラッド・カンパニー作品
配給: ワーナー
あらすじとコメント
前回の「真昼の決闘」(1952)を大胆にもSFに置換した作品。「個人」による正義と「依存」による存在意義を描く作品で、監督と脚本は御贔屓のひとりピーター・ハイアムズであり、主演は円熟味を増していた頃のショーン・コネリー。
木星の第三衛星『イオ』。そこでは「チタニュウム」が採れるので、採掘員やら管理者など、総勢2144名の人間が居住していた。週に一度、木星からのスペース・シャトルが70時間かけ必要物資を送って来る衛星である。
そこに妻子と新しく赴任してきた連邦保安官オニール(ショーン・コネリー)。彼は持ち前の正義感から、行く先々の鉱山星で支配人たちと対立してきたが、さして重要なことではなかった。しかし、数々の衛星を渡り歩く生活ゆえ、息子は、宇宙で生まれ育ち、緑豊かな地球の地を一度も踏んたことがなかった。
そんな家族のことは、気にはなっていたが、新任地で、精神障害などで自殺者が増加していることの方が腑に落ちなかった。誰もが、どこか排他的でもある。宇宙の果ての衛星では、心を病むのは仕方ないと、彼に呟く女医ラザラス(フランセス・スタンハーゲン)。
着任早々忙しく働くオニールが部屋に戻ると、ビデオ・メッセージが残されていた。妻が、息子を連れ、一年も有する旅路を決心し、木星から地球へ旅立つという内容であった。「木星で待ってます。是非、貴方も一緒に来てください」
そう懇願する妻であったが・・・
妙なリアリティが漂うSFサスペンス映画。
仕事に忠実で正義感溢れる保安官。新任地では、何やら以前までとは違う『問題』があるようだ。
それが何かは、すぐに明らかになる。悪役が誰であるかも明白である。しかし、部下や採掘員たちは、素知らぬ振り。しかも妻子は最後通牒を突きつけて、木星に旅立ってしまった。
完全孤立。まさしく「真昼の決闘」と同じシチュエーションである。しかも、主人公の下らぬ正義感に業を煮やしたボスは、木星から彼を殺すべく殺し屋を派遣した。更には、その噂を自ら流し、誰も協力者がでないように仕向ける。
そういった中で、殺し屋を乗せたシャトルの到着時間が迫って来る。しかも「真昼の決闘」同様に、到着までの時間が何度も告示される。
ありがちな派手なSF映画とは違い、妙にリアリティ漂う宇宙空間と、淀んだ空気が流れる衛星基地内でのみ進行する中で、サスペンスが増幅されていく。
特に、中盤にでてくる、悪人らを走って追い掛けるシーンは、ハイアムズ監督の出世作「破壊!」(1973)同様、狭い居住スペースや、人で溢れる通路を縦横無尽に追い続けるカメラ・ワークは流石である。
しかも、あり得ない空間なのに、生活感と沈んだ空気感が見事に再現されたセットが、奇妙な不安定感をも増幅させている。
そして、シャトルが到着する終盤から、立て続けに繰り広げられる「宇宙空間」をかなり意識したアクション。
また、以前までには見られなかった基地内の「牢屋」のスタイルや、鉱石採掘現場の奇妙なまでにリアルな存在感、むせ返るような閉塞感のある酒場といった風変わりな設定も興味深い。
それでいて、ロボットやトンデモナイ武器などは登場しない。何処までも妙なリアル感に支配されている。
ある意味、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」(1968)の影響もかなり見受けられる。そしてハイアムズ作品に共通する、もう一つの要素である『B級感』もある。
当然ながら、太陽が燦々と輝くロケ・シーンもなければ、常に薄暗く閉塞感溢れる労働者側の空間と、クリーンだが、無機質な上級幹部の部屋や医務室といった場面でも常に「息苦しさ」がある。
派手な作品ではないし「真昼の決闘」を見ていれば、ほぼ読み切れる終焉。確かに既に作られていた「スター・ウォーズ」(1977)のパクリや、ラストのアクション・シーンなど間の悪さが目立つので、中途半端というか、『惜しい』という印象。
だが、個人的には、そこにこそハイアムズ監督の個性を感じ取る。ハッキリ言えばどうでもよい作品だが、それでも、決して嫌いではない。