スタッフ
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:デヴィッド・グーディス
脚本:マルセル・ムーシ、F・トリュフォー
撮影:ラウル・クータール
音楽:ジャン・コンスタンタン
キャスト
サローヤン / シャルル・アズナブール
テレーザ / ニコール・ベルジェ
レナ / マリー・デュボア
クラリス / ミシェール・メルシェ
シコ / アルベール・レミー
リシャール / ジャック・アスラニアン
フィド / リシャール・カナヤン
プリヌ / セルジュ・ダヴリ
エルネスト / ダニエル・ブーランジュ
日本公開: 1963年
製作国: フランス プレイアード作品
配給: 新外映
あらすじとコメント
訳ありの「ピアニスト」が主人公で、アクションが入る。そして、どこかB級感が漂う。前回の「ガルシアの首」(1974)とは、完全に一線を画すのだが、連想したのが本品。
フランス、パリ。とある夜、裏町の酒場『マミー』で、ピアノを弾くサローヤン(シャルル・アズナブール)の元へ、彼の兄が逃げ込んで来る。
兄は、何やら犯罪に加担したが裏切り、追われているのだと。すぐに、二人組の男が兄を探しにやって来た。サローヤンは、不意を突き、兄を逃がす。
兄は、無事に逃げおおせたかと思う彼に、その夜、サローヤンに気があるウェイトレス、レナ(マリー・デュボア)が声を掛けて来た。
彼の下心が疼くが、態よく断られる。何だかな、と失意のまま帰宅すると・・・
映画評論家上がりのトリュフォー監督による観念的、且つコメディ漂う作品。
ヌーベルバーグの旗手として位置付けられている監督フランソワ・トリュフォー。そんな監督の長編第2作目の作品である。
作品自体は、元天才ピアニストの主人公が兄弟の犯罪に巻き込まれつつ自分も犯罪者となる流転の人生を描く内容である。
普通であれば、渋いフィルム・ノワールのような話なのだが、そこはトリュフォーの才覚で自由闊達に話が飛ぶという作劇で進行していく。
犯罪者の兄が、何かに追われ、暗い画面の中で、一瞬、その姿が浮かび上がる姿が、フラッシュ・バックのように描かれる。そして、その兄が電柱に頭をぶつけ転倒し、助けられた通りがかりの見知らぬ男と家族の会話をする冒頭からして、ある意味、意味不明というか、脈絡のない話でスタートする。
コメディでもあるし、不条理的とも取れる出だし。そして、どこか斜に構え、世間との関わりから降りてしまった態の主人公の登場。
何故、そのような性格になったかは、中盤で感傷的に描かれるのだが、常に、ワザと歯切れの悪いリズム感による編集や、説明的性格設定の吐露でもないコメディ要素溢れる、本筋とは何ら脈絡のない会話などが挿入される。
非常に知的で理性派という印象の、いかにも映画評論家的発想と、逆に、それを感じさせまいとする手法による演出と進行。
それが、体から発せられるリズム感ではなく、あくまで「インテリジェンス」としての観点が先走るために、どうしても観念的という印象を受ける。だからこそ、そこが堪らなく好きだ、という人間も多い監督でもある。
当時、フランス映画界では『ヌーベルバーク』旋風が吹き起こり、ジャン・リュック・ゴダールやクロード・シャブロル、アラン・レネといった新感覚の若手監督が台頭していた時期である。
芸術や文学に造詣の深い若者たちが、それまでの情緒的で、哀愁に満ちた映画と完全に一線を画すために映画界に進出した。そして、世界中の左派思想や反体制運動に憧れる若者たちが飛び付き、難解ゆえに独自の解釈と理念を持ちこみ、これこそが映像芸術であると持ち上げた作家たちである。
確かに、トリュフォーは、他の作家たちよりは、難解度は低く、哲学的で、観客に対峙するような、もしくは突き放すような、難解かつ不条理的作品は排出しなかった。
本作も然りである。ただ、敢えて、それまでのセオリーを無視、もしくは破壊しつつ、コメディ要素を散りばめ、且つ、アメリカのB級犯罪映画のテイストをも取り入れているとも感じた。
ただし、そこにフランス人としての気質なり、優位性の中での、やや『上から目線』的進行が際立っているという印象も受ける。
個人的には、決して嫌いな作家ではないのだが、どうにも相性が悪いと感じる監督のひとりである。それは、流れる感性なり、琴線が、どこか相容れない排他性を感じさせるからでもある。
それでも、フランス映画を語る上で、なくてはならない存在であることに変わりはないし、同時期の他の作家たちよりは、彼らからすれば、唾棄されるべき低俗な観客としての劣等感に苛まれないで済む監督でもある。
ある意味、映画は格闘だと、優しく教えてくれる作品。