スタッフ
監督:マイケル・パウエル
製作:マイケル・パウエル
脚本:レオ・マーク
撮影:オットー・ヘラー
音楽:ブライアン・イースデール
キャスト
ルイス / カ-ル・ベーム
ヴィヴィアン / モイラ・シアラー
ヘレン / アンナ・マッセイ
スティファンヌ夫人 / マクシーヌ・オードリー
ベイデン / エズモンド・ナイト
ベイデン / マイケル・グッドリフ
グレッグ警部 / ジャック・ワトソン
ドーラ / ブレンダ・ブルース
ミラー / ナイジェル・ダヴェンポート
日本公開: 1961年
製作国: イギリス M・パウエル・プロ作品
配給: 東和
あらすじとコメント
今回もパウエル&プレスバーガーにしようかと思ったが、名コンビ解消後にマイケル・パウエルが単独で発表した異色の恐怖映画にしてみた。コンビ時代の危ういバランス感覚の抜けた、パウエルのいびつさが際立つ佳作。
イギリス、ロンドン。映画撮影所のカメラマン助手をしているルイス(カール・ベーム)は、アルバイトでヌード撮影もする青年だが、静か過ぎてモデルたちから気味悪がられる存在であった。
彼は常に8ミリ撮影機を持ち歩き、ドキュメンタリーを撮ると周囲に言うが、実は、女性が死ぬ瞬間におびえる恐怖の顔を撮影することに興奮する異常な殺人者であったのだ。
そんな男とは知らず、同じアパートに住むヘレン(アンナ・マッセイ)は、物静かだが、どこか陰のある彼に惹かれて行った・・・
幼少期に受けた恐怖を引きずる青年の歪んだ感情を描く異色ホラー。
父親は有名な心理学者。その父が追求した研究は『恐怖に直面した状況下での児童心理』。
つまり、我が子を実験台にし、それを研究材料としてカメラに収める研究。しかも母亡き後、平気で美人の後妻を貰うような男でもあった。それが子供にどんな影響を与えたのか。
ある意味、ヒッチコックの「サイコ」(1960)と相通じる題材である。だが、本作でのパウエル演出は、同じくイギリス出身のヒッチコックとは違う美的センスを醸しだす。
しかし、それは、同じくイギリスのハマー・プロが得意とした「ドラキュラ」シリーズに於けるゴシック・ホラー系とも違う、気味の悪い「いびつさ」と「異常性」が、背筋を伝うような作風。
確かにコンビ時代も「天国への階段」(1946)、「黒水仙」(1946)、「赤い靴」(1948)と、どの作品を取ってみても共通した、『奇妙な恐怖感』が伴っていた。
それは完全にパウエルの趣味であったと確信できる。しかも、本作は『映画』という媒体が最初に持っていた「事実の記録」を踏襲している。
だが、その使い方の着想は、また、いびつである。
映画初期の「白黒」で「サイレント」。しかも、「劇映画」として人気を博して行った当時、劇場で見る観客のために、ピアノ演奏が付いていた。この映画でも、完全にそれを連想させるピアノ・ソロの音楽が印象的に使われる。
つまり、「映画の原体験」そのものが、恐怖に直結するというもの。
確かに人間の欲望というか、発展して行った映像の技術革新は、やがて、映画に音を発声させ、色を付け、ワイド・スクリーンになり、3Dとなっていく。
しかも、更に人間の欲望として、本来、見られないものを映像に投影する「覗き見」という、一種の背徳感をも増幅させて行ったのも事実。正にその、人間の弱さに着眼した作品でもある。
本作はそんな人間の持つ脆弱的悪趣味を描破していく。
例えば、冒頭、いきなり起きる殺人シーンは、実際の殺人にいたる場面はカラーで描かれるのだが、一方、主人公の自己撮り8ミリに収められる「恐怖に満ちたドキュメンタリー」は『白黒』。
観客はいきなり、カラーと白黒で、まったく同じ恐怖体験をさせられる。尤も、この表現自体は「天国への階段」と同じ手法でもあるのだが。
また、背反するものとして描かれるのは、「見えるもの」と「見えざるもの」の対比でもある。
しかも、その重要なファクターを体現するのが、「赤い靴」でプリマドンナを演じたモイラ・シアラーなのである。
確信犯的ンシンクロニシティ。ストーリィとしてのメインは、いびつな経験から、更にいびつな青年へと成長した男であるが、それを描く手法として際立つのは、あくまで「映像」での対比である。
映画が持つ魔力に取りつかれたパウエルならではの視点と表現。また、観る側の心の闇までえぐり取られるような憎悪感さえ覚える。
ある意味、問題作であるが、それをどこかB級感を漂わせるヤラしさで綴る作風。
背徳感やこちらの弱さまでをも想起させ、精神的不安定さを体感させられるホラー映画。