遂に、浅草から映画館が消えた。
最後まで残っていた場所。その一角には、4軒の映画館が入り、どこも小さく汚い小屋だった。中の一軒は、以前、ストリップ劇場でもあった事を知っている人間はどれほどいるだろうか。
場所柄、山谷が近かったこともあり、仕事にあぶれた労務者や、浮浪者が雨風をしのぐ場所として、一日中、居座り、トイレの微妙なアンモニア臭と相まって凄い臭気がしたものだ。
それすら、ほろ苦い思い出となった。これで、完全に『六区興行街』という名称も遺物となった。
あまりにも悲しくて、一館たりとも最後まで「さよなら」を言うために、映画を観に行けなかった。
思い起こせば、昭和30年代には、既に映画は斜陽産業であり、映画館の数は減る一方であった。『娯楽の殿堂』浅草の隆盛にも秋風。それでも、邦画系は5社全ての映画館があり、丸の内東宝系の洋画封切館も残ってはいた。しかし、そのすべてが消えた。
当時、まだ子供だった所為もあるし、一番大きかった「大勝館」の支配人が親戚だったこともあり、六区のいくつかの映画館は顔パスで入れた。
もう40年以上も前のことだが、戦前は東京で3館しかなかった洋画封切館であった大勝館が取り壊された時のことは鮮明に覚えている。アールデコを模した豪華な建物で3階席まであり、角の入口には天井からぶら下げられたシャンデリアがあった。二階へ続く大理石の階段は赤絨毯敷きで、真鍮の手すりが金ピカに輝いていた。
当時、NHKの朝のニュースのメイン・キャスターが、その姿をレポートしながら、「自分が若い頃、何百回も訪れた映画館で、私の青春のすべてが取り壊されていく」と涙を流していた姿が頭から離れない。それを見ていた浅草生まれ、浅草育ちの父と、自分もその放送を見ながら、朝から涙した思い出もある。
そんな自分の原体験であり、映画好きを嵩じさせた六区興行街が、完全に消えたのだ。
その一帯は大規模開発されるとか。それが時代なのだろう。大正大震災で崩れ落ちた「凌雲閣」を再建するとも聞く。川向の最長電波塔に対しての江戸っ子の見栄だろうか。
子供時代に、まったくピンと来なかった『明治は遠くになりにけり』ならぬ、昭和そのものが完全に、再生のキーワードか。そうはいっても12階建ての楼閣は大正だ。
浅草自体が、一大テーマ・パークとして、かつての活況を取り戻すのか。立派なものである。
しかし、何だろう、この虚しさは。