スタッフ
監督:ダグラス・トランブル
製作:マイケル・グラスコフ
脚本:デリック・ウォッシュバーン、ステーヴン・ボチコ
マイケル・チミノ
撮影:チュアールス・F・ホイーラー
音楽:ピーター・シッケル
キャスト
ローウェル / ブルース・ダーン
キーナン / クリフ・ポッツ
バーカー / ロン・リフキン
ウルフ / ジェス・ヴィント
ドローン2 / マーク・パーソンズ
ドローン1 / シェリル・スパークス
バークシャー船長 / ジョセフ・キャンパネラ
アンダーソン / ロイ・エンゲル
日本公開: 1986年
製作国: アメリカ トランブル&グラスコフ・プロ作品
配給: ケイブルホーグ
あらすじとコメント
前回の「マシンガン・パニック」(1973)で、クセのある相棒役を演じたブルース・ダーン。そんな彼が珍しく主演した、静かなるSFの佳作にしてみた。
宇宙空間。巨大宇宙輸送船ヴァレー・フォージ号。20世紀末のことである。環境汚染から地球上の植物は全滅し、僅かばかり残った苗木などを移動させ、3隻の巨大な輸送船のドーム内で育てられていた。
乗員は4名で、植物担当はローウェル(ブルース・ダーン)だが、他の3名は早く地球に帰還できることばかりを夢見ていた。大してすることもないからだ。真面目に植物に接するローウェルを尻目に、他の男たちは、カート・レースなどに興じ、暇を潰す日々。だが、都度、植物をないがしろにする姿に苦虫を噛み潰すかないローウェル。
そんな中、やっと帰還命令が届いた。狂喜乱舞する乗組員たち。ただ、ローウェルだけは違った。何故なら、植物ドームを破壊しての帰還であったから。いそいそと爆破準備に取りかかる3名の乗組員たち。平航する他の輸送船では、次々と植物ドームが爆破されていく。
それを目の当たりにしたローウェルは・・・
人間が自ら犯して行った『驕り』を総括するような、孤高的雰囲気を持つ作品。
人類は、自分たちのみの進歩のために自然破壊を繰り返した結果、宇宙のドーム内でしか植物を残せない世界となってしまった。
時代設定は、2001年である。つまり、スタンリー・キューブリックの秀作「2001年宇宙の旅」(1968)と同じ年号だ。しかも、本作の監督ダグラス・トランブルは、キューブリック作品の特技監督でもある。
なので、宇宙船のデザインや内部など、妙に共通性を感じ、まるで姉妹編とも呼べる。
ただ、違うのは、キューブリック作品は、人間の進歩を哲学的に描いたのに対して、本作は、当時、流行っていた「アメリカン・ニュー・シネマ」的作品だということ。
映画史的に見ても、日本映画における黒沢明の大作と、千葉泰樹の市井の人間を描く小品の違いであろうか。
別な視点で言えば、人間対コンピューターという対立軸ではなく、オタクのマイクロ的世界観とも感じられる。
冒頭で描かれる、主人公と他の3人の乗組員の違いは、現代でも通じるものがあるだろう。
時代と共に変わっていくというか、その実、流され、感化されてきた若者たち。
一方で、古い価値観というか、どこか冷めた視点で植物にしか興味を示さない主人公の学者という、非常に解りやすい比喩的設定。文明や技術革新に酔って、人間が放棄して来た、感覚なり、感性に対してのアンチテーゼでもあろう。
主人公は、エネルギーの大量消費による進歩よりも自然回帰を願う。しかし、対人コミュニケーションに関しては、苦手である。だからか、孤独を恐れない男でもある。
そして映画は、途中から変調する。その時に、主人公の取る行動はいびつだ。以後、主人公の仲間は3台の小型ロボットとなっていく。
ある意味、恐怖を感じた。それは、ドーム内には、ウサギ、亀、カエルやトカゲといった小動物も、自然界同様に生息しているのだが、主人公は一切、興味を示さない。
あくまでも、主人公が感情移入するのは、植物とロボットに対してのみなのである。
その3台のロボットが素晴らしい演技を披露する。所詮、大人の俳優は、子役と動物には敵わないと言われるが、本作では、ロボットが完全に主役を喰っている。
他にも、特技監督出身らしく、ミニチュア・ワークによる輸送船や宇宙空間の処理が見事。
現代よりも技術的制限があり、CGに頼れない分、『温もり』を感じさせる。
ある意味、今見るからこそ、自然回帰を謳う本作の趣旨が理解できる。正に、技術は革新され続け、自然界の異常現象も現実味を帯びてきた。
予言とも受け取れなくもないが、それ以上に切なさが際立つのはなぜか。
人間のあくなき欲望がもたらす人間への復讐。ヴェトナム戦争の影も感じるし、どこかヒッピー的思考もある。
劇中に流れるジョーン・バエズの音楽も含め、当時の時代性が反映されているが、製作されてから40年、人間は一体どこへ向かおうとして来たのか。
作品としてのバランスを考えると佳作だが、個人的には秀作と感じた。