スタッフ
監督:シドニー・ポラック
製作:ジョン・ハウスマン
脚本:フランシス・コッポラ、フレッド・コー、E・R・ソマー
撮影:ジェームス・ウォン・ホウ
音楽:ケニヨン・ホプキンス
キャスト
アルヴァ / ナタリー・ウッド
レゲイト / ロバート・レッドフォード
ニコルス / チャールス・ブロンソン
ヘーゼル / ケイト・リード
ウィリー / メアリー・バーダム
シドニー / ロバート・ブレイク
ジョンソン / ジョン・ハーディング
セールスマン / ダブニー・コールマン
ジム / レイ・ヘンフィル
日本公開: 1969年
製作国: アメリカ パラマウント作品
配給: パラマウント
あらすじとコメント
「列車」とは、人間の人生に例えられることが多い。「見送る男」、「乗った男」と邦題からイメージした作品を選んできた。今回は、タイトルには謳ってないが、『乗って来た男』に材を取った。そんな男が巻起す人生の機微を描いた人間ドラマ。
アメリカ、ミシシッピ。とある夜半、ドッドスンという小さな町にレゲイト(ロバート・レッドフォード)が、汽車から飛び降りてやって来た。何やら秘密があるようだった。
彼は、すぐに街の下宿屋に寄宿する。彼を気に止めたのはそこの次女ウィリー(メアリー・バーダム)。折しも、彼女の母親である、そこの女主人の誕生パーティーが催されていた。そして騒いでいる客たちを冷静に一瞥するレゲイト。しかし、誰も彼を気に留めなかった。そこに長女であるアルヴァ(ナタリー・ウッド)が帰って来た。すぐに母親が近付いて、パーティーの費用をすべてだした中年男の相手をしろと命じる。どうやら、母親はその金持ち男と結婚させたいようだ。
しかし、アルヴァはレゲイトを見た瞬間・・・
暗い時代背景の中で繰り広げられる切ない男女の姿を描く佳作。
原作は南部の人間模様を重厚に描いた戯曲を数多く輩出したテネシー・ウィリアムズによる一幕物。
美人だが、すれっからしのヒロイン。方や、人に嫌われる仕事に後ろめたさを感じている若い男。勝気でいて、どこか厭世感を漂わせつつ達観したような二女。家族を棄てた夫を憎みつつ、女手ひとつで下宿屋を営んできた母親。主たる登場人物はその四人。
全員に共通するのは「孤独」である。
特にヒロインは、夢を見ながら、棄てているように振る舞う。しかし、それでも、必死にもがき苦しんでいる姿が切なく浮かぶ。
絶望と孤独。現実逃避しようとすればするほど悪寒が襲ってくる。美人でちやほやされ、自惚れてワガママ。だが、いつかこの息苦しい町からでたいと心底願っている。
母親も周囲の男たちも、そんな彼女の気持ちを理解しようともせず、結局、誰もが身勝手だ。ヒロインは、そんな環境にやってきた若い男に長年の夢を託そうとして行く。
何と言っても、そんなヒロインを演じるナタリー・ウッドの演技が素晴らしい。
幸せの中にも、どこか薄幸さを漂わせ、見ている側に、妙な不安感を嵩じさせる。
学がないゆえ、思い付きの行動にでて、素直に幸福感に酔ったり、絶望に打ちひしがれる。ある意味、天真爛漫とも取れるが、どこか悲劇性が勝っている。
二女や母親、そして町の人間たちも閉塞感に苛まれている様子が見て取れる。
そこに横たわるのは暗い「大恐慌」という時代。誰もが貧しく、だからこそ、短絡的な快楽を享受しようとする。
そんな本作の登場人物で、唯一、柔軟性があると感じさせるのは、ヒロインが好きになるレッドフォード。
彼だけが、仕事柄、あちらこちらを旅し、そして意にそぐわない仕事を続けている「流れ者」だからだ。
そこにも時代背景と場所柄のシニカルさが淀んでいる。
それらを際立たせ、ヒロインの悲劇性をあぶりだす台詞も見事。戯曲は未読であるが、映画用に書き加えられた部分も多いと推察できるが、脚本にフランシス・コッポラの名前があるのも注目するべきだろう。
コッポラが本作の4年後に発表する秀作「雨のなかの女」(1969)のヒロインに、どこかウッドのイメージが重なるのは偶然だろうか。
また、監督のシドニー・ポラックも4年後に、本作と同じ時代背景に材を取った秀作「ひとりぼっちの青春」(1969)を輩出しているのも奇妙な偶然性を感じる。
そのどれもが単純なるハッピー・エンドを迎えず、どこか絶望感と無常感という余韻に引きずられる。
死ぬ者と生き続ける者。夢を追うことが実生活に起こす弊害と必然。複雑な心境に陥る作品である。