余談雑談 2014年3月29日

寒い寒いと言っていた日常から、今週始め、桜の開花宣言が出た東京。結局、今年の桜は遅いの早いのと毎年言われるが、例年通りになるから不思議。

所詮、人間のデータの蓄積による予想よりも自然が勝るのは当然だろうか。それでも、飽くなき探究心で物事を進捗しようとする人も多く、頭が下がることも多い。

ところが、中には、自分の思い込みや名誉欲が勝り、マスコミの絶好の餌食になる人もいる。人はそれぞれであり、何かのタイミングで外れてしまい、そこから軌道修正できないのが普通なのだろう。

自分もそうであり、年を重ねるごとに偏屈さが際立ち、料簡が狭くなる。なのに、直そうともしない。

すぐでも満開になりそうな雰囲気だが、すぐに散りもするのが桜。僅かな期間の儚さと美しさ。淡い色のソメイヨシノに重ねる散り際の美学。

そういえば、もう十年近く前になるが、父が突如、数年振りに自室を訪れ、眼下に拡がる満開の桜を見に来たことがあった。

当時、足が悪く、人混みが苦手であったが、それでも、やって来て桜を堪能して帰った。

それが最後の花見であった。その翌年、父は桜を待たずに逝った。何か、これが最後の桜という予感があったのだろうか。

翌年、入院中の早朝、突如様態が急変し意識不明に陥った。医師らの必死の努力が施され、すぐに家族が呼ばれた。

その時告げられたのは、後は父次第であり、もし、生存しても植物状態になると。不謹慎ながら、思い浮かんだのは、その状態のまま、長く生きられたら、完全介護する自分たちに掛かる負担だった。

だが、父は数時間で生涯を閉じた。悲しかったが、その時に感じた。

どんな金持ちでも散り際だけは買えまい。以後、毎年、満開の桜を見ると父を思い出す。

今年の満開は、もうすぐだ。

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