スタッフ
監督:ロバート・アルドリッチ
製作:カーター・デ・ヘヴン、バート・ランカスター
脚本:アラン・シャープ
撮影:ジョセフ・ビロック
音楽:フランク・デ・ヴォル
キャスト
マッキントッシュ / バート・ランカスター
デビュイン少尉 / ブルース・ディヴィソン
ケ・ニ・タイ / ジョージ・ルーク
軍曹 / リチャード・ジャッケル
ウルザラ / ホアキン・マルティネス
ゲイツ大尉 / ロイド・ボックナ─
ルーキーサー / カール・スヴェンソン
カートライト少佐 / ダグラス・ワトソン
リオーデン夫人 / ドーラン・ハミルトン
日本公開: 1973年
製作国: アメリカ C・D・へヴン、アルドリッチ・プロ作品
配給: CIC
あらすじとコメント
今回もバート・ランカスター主演にして、監督がロバート・アルドリッチ。しかも、前回同様、先住民であるアパッチ族が絡む話だが、ランカスターが演じるのはアパッチ族ではなく、追手側の白人。アルドリッチらしい骨太さを味わえる作品。
アメリカ、アリゾナ先住民居住地から残虐な勇士ウルザナ(ホアキン・マルティネス)が、仲間を引き連れ脱走した。彼らを管理する騎兵隊は、面倒臭い手順に則って追跡隊を組織しようとする。
長年、「スカウト」と呼ばれる斥候のマッキントッシュ(バート・ランカスター)は、その間に殺戮が行われると進言する。だが、既に和平協約が結ばれていて、彼らにも人権があると承認した政府のまどろっこしい法律を盾にし、それを順守しようとする司令官の態度に閉口した。
それでも、彼に理解ある将校は、暗黙の了解で追跡隊を認可した。隊長に選ばれたのは、士官学校出で、着任半年のデブリン少尉(ブルース・ディヴィソン)。しかも少尉の父親は聖職者であり、実戦経験のまったくない彼には、晴天の霹靂であった。
目的はあくまで先住民を拿捕して居留地に戻すこと。しかし、そんな命令で動く少尉らに、複雑な表情をみせるマッキントッシュ。
彼には、これから起きることが容易に想像ついていたからだ・・・
娯楽作として進行しながら、人間の価値観と宗教観を問う西部劇。
和平条約が締結され、以前のような先住民と白人との間で戦闘が行われなくなっていた時期。
当然、士官学校出の青年将校は戦闘の経験すらない。しかも軍隊である以上、命令には忠実で、その上、厳格な父親からキリスト教を学び、真摯で敬虔な信者でもある。
一方で、居留地に閉塞感を感じていた戦士は、自由を求めた。
その間に立つのは先住民の妻を持ち、幾多の戦いを生き抜いてきた老スカウト。
更に、白人側に協力しているが、脱走者と同じアパッチ族ゆえに、新任の将校には、いまひとつ信用されていない斥候も同行する。この四人がメイン。
己の本能に忠実で、白人男性はなぶり殺しという残虐な手段で殺戮し、女性は絶対に強姦するという行動をとるアパッチ族をまったく理解できない、若き将校。
何故なら、彼は常にキリスト教の教えをベースとした思考で理解しようとするからだ。しかし、相手も本能に基づく知性に長け、中々、追いつけない中、犠牲者がでて行く。
ヴェテランのスカウトである主人公は、敢えて、急ごうとする将校をたしなめるような言動を取り続ける。
それは、焦ってミスを犯した方が負けということを熟知しているからだ。だから、多少の犠牲者は止むを得ないと達観している。
残虐描写を入れたり、メリハリの付いた頭脳戦から展開するアクションを散りばめるアルドリッチの演出は安心して見て行ける。
しかも、既に市民権を得ていたイタリア製の残虐性を売りにしたウエスタンと同じような場面を描きながらも下品過ぎず、単純に先住民だけを悪役として描かず、むしろ、彼らの方に、人間として孤高な崇高さがあると描く骨太さも垣間見せる。
口数が少なく達観し、且つ、己の分をわきまえてヒーローになろうともしない主役の行動に、感情移入しずらい観客もいるだろう。本来であれば、脇役の設定だからである。
しかし、この当時のアルドリッチは、常にそれぞれに人間性があり、宗教観が違うと、相手は悪者と簡単に決め付ける、どこか白人優位主義から派生する『世界の警察アメリカ合衆国』という権力思考に楔を打ち込む姿勢を貫いてきた監督。
なので、単純に白黒決める作品はなく、人間とは複雑であり、多様性があり、そのせめぎ合いが、結果、暴力を誘発し、アクション映画として成り立って行くというスタイルが多い。
本作も然り。リアルな薄汚さを伴って描かれる、どこかリアルでありながらも、あくまで娯楽作として撮り上げる監督の矜持を感じられる作品。