スタッフ
監督:セシル・B・デミル
製作:セシル・B・デミル
脚本:イーニアス・マッケンジー、J・L・ラスキーJr、ジャック・ガリス 他
撮影:ローヤル・グリッグス
音楽:エルマー・バーンスタイン
キャスト
モーゼ / チャールトン・ヘストン
ラメシス / ユル・ブリンナー
ネフレテリ / アン・バクスター
デーサン / エドワード・G・ロビンソン
セティ1世 / セドリック・ハードウィック
ベシア / ニナ・フォック
バッカ / ヴィンセント・プライス
ヨシュア / ジョン・デレク
リリア / デヴラ・バジェット
日本公開: 1958年
製作国: アメリカ セシル・B・デミル・プロ作品
配給: パラマウント
あらすじとコメント
前回がキリストを描いた「新約聖書」。今回はその前の「旧約聖書」に材を取った作品を選んだ。映画史上に名を残すスペクタクル大作でもある。
3000年前のエジプトヘブライ人を奴隷として扱うエジプト人は、ファラオ王を称える都を建造中であった。しかし、劣悪な環境での労働を強いていたため、工事は一向に進まななかった。
そんなヘブライ人たちは、いつか救世主が現れると信じていた。その救世主は、我らがヘブライ人の長男として、この世に生を受ける、と。当然、その情報は王の知れるところとなり、それが元で反乱が起きると助言する者もいた。結果、その予言を信じたファラオ王は、ヘブライ人の長男全員を殺害するように命じ、それを拒む家族らも殺害すべしと。次々と長子が殺される中、難を逃れようとした母親が、ひとりの赤子を籠に入れナイル川に流した。
その赤子は、夫を亡くし、子供もいないファラオの妹ベシアに拾われて、モーゼと名付けられ、自分の子として育てた。
やがて、成長したモーゼ(チャールトン・ヘストン)は、ファラオの寵愛を受け、立派で勇敢な跡継ぎ候補の最右翼となった。面白くないのは、ファラオの長男ラメセス(ユル・ブリンナー)だ。しかも、自分が恋しているネフレテリア(アン・バクスター)も、モーゼに恋しているから、尚更である。
やがてモーゼがヘブライ人であると知ったラメセスは・・・
奴隷として生きる民族の一人が神の預言者となり、同胞を解放する一大叙事詩。
奴隷民族の捨て子が、英知に富み、勇猛果敢な青年に成長し、王国を継ぐ寸前まで行く。しかし、自分の出生を知り、潔く奴隷へ身を落して、そこで真の人間として目覚める。
だが、恋敵であり、王国継承のライバルでもある男から、更なる試練を与えられる。結果、都から追放の身となり、死の砂漠を彷徨うこととなる。
そんな主人公の過酷な人生を描きながら、やがて、素朴で純真な羊飼いの娘と知り合い結婚し、長男を儲けていく。
普通の映画ならば、ここで終わるだろう。何せ、ここまでで二時間をゆうに超えるのだ。
しかし、本作は、ここから、神がかってくる。何と、四時間近い超大作であり、唯一無二の宗教であると謳い上げるためには、波乱万丈の苦難の末、神の信託者として奇跡を起こして功徳を見せなければならないから。
主人公の艱難辛苦もさることながら、女性の描き方に興味が湧いた。
養母となる王妃、産みの母親と再会で感じる『女性』としての相違。
また、主人公を愛する王妃候補とライバルとの三角関係。更に、奴隷の身の若い恋人たちの顛末。
どれも、人間の『業』があり、葛藤しながら、意志を貫くもの、安易な道を選ぶ者と様々に描かれる。
受容と忍耐。一方で、男たちは単純である。分かりやすい人物設定の中で、宗教観の相違による軋轢や学習効果のない人間を描きながら、神が鉄槌を下すクライマックスへと突き進んでいく。
娯楽大作でもあり、啓蒙映画でもある。ただし、個人的にはどうも相容れない作品でもある。
それは、あまりにも特定の宗教こそが崇高で最高であり、それを信じず、奢りや権力や富によって支配しようとする人間は邪悪であると。
確かに、本来ならば悪役として描かれ、映画的には死ぬべき人間たちが死なない。それも、その宗教を信じる人間に対する『寛容』であろう。
しかし、特定の宗教を受容しない下々の人間は、大量に死ぬ展開でもある。
どうしても、そこに疑問を持つのだ。
自分は特定の宗教の敬虔な信者ではなく、生臭い人間だから感じるのであろうか。
しかし、ラストに神からの『十戒』が示されるが、現在、その民族の流れを汲む者たちが世界経済を牛耳り、富と権力の中枢に君臨しているのは、何かの悪いジョークだろうか。
更に、ひねくれて考えると、キリスト教総本山を持つイタリアの言語では、アルファベットの中で、なぜか『J』を使いもしないし、発音もしない。
もしかしたら、長い人類の歴史の中で、深謀遠慮なことがなされたのだろうか。
四時間もかけて特定の宗教の啓蒙映画をみせつけられても、どうにも、後味が良くない歴史的大作。