スタッフ
監督:ジョン・フォード
製作:ウィリス・ゴールドバック
脚本:ジェームス・ワーナー・ベラ、W・ゴールドバック
撮影:ウィリアム・H・クローシア
音楽:シリル・モックリッジ
キャスト
ストッダード / ジェームス・スチュワート
ドニファン / ジョン・ウェイン
ハリー / ヴェラ・マイルズ
ヴァランス / リー・マーヴィン
ピーボディ / エドモンド・オブライエン
アップルヤード保安官 / アンディ・ディヴァイン
ポンペイ / ウディ・ストロード
リース / リー・ヴァン・クリーフ
フロイド / ストローサー・マーティン
日本公開: 1962年
製作国: アメリカ J・フォード・プロ作品
配給: パラマウント
あらすじとコメント
今回もジェームス・スチュワートとジョン・フォード監督のコンビ作。しかも、もう一人の共演はジョン・ウェイン。日本人好みの人情味溢れる秀作。
アメリカ、西部の小さな町シンボーンその町に東部から大志を抱いた若き弁護士ストッダート(ジェームス・スチュワート)が向かっていた。しかし、そこはまだ州としては認められていないほどの田舎で、銃がすべてであり、法律など机上の空論にしか過ぎぬ場所でもあった。
事実、彼は、街に到着寸前、駅馬車強盗に遭い、抵抗したために、瀕死の重傷を負ってしまう。それを助けたのは、ドニファン(ジョン・ウェイン)で、酒場を営むハリー(ヴェラ・マイルズ)の元へ運び込んだ。意識を取り戻したストッダードに、犯人は荒くれ者ヴァランス(リー・マーヴィン)一味だと教える。
回復したストッダードは、そのまま、その酒場で働きだすが・・・
様々な『男の美学』を描く、名匠フォードが最後の輝きを放った秀作。
銃と力がすべての場所で、近代的価値観で生きようとする弁護士。そして昔気質だが、人格者の男。
そこに、滅法腕が立つ荒くれ者が絡む。更に、読み書きもできない美女や、進歩的新聞社主幹など、魅力的なキャラクターが登場して来ての進行。
とはいっても冒頭は、次期副大統領候補の上院議員になっている、老境の域に達したスチュワート夫妻が町にやって来るところから始まる。
しかし、時代は流れ、何故、そんな著名人がこの地へやって来たのかを探ろうと新聞記者が取材に来るが、彼の返答に困惑する。何せ、町の誰もが知らない、完全に忘れ去られた老人の葬儀に来たからだ。そして、柩の傍らに佇む老黒人を見て、感無量の表情となるスチュワート。
映画は、回想形式で、各々の男たちの生きざまを映しだしていく。
先ず、純朴でストレートな東部の弁護士と気骨溢れる西部気質の男と、食堂の娘の三角関係が描かれ、その地が、準州から州への昇格話があるという内容が描かれる。
しかし、北部の牧畜業者が、その町を配下に置こうと、ならず者を雇い、権力と暴力で隷属させようと目論んでいる。それに知力と正論で対峙しようとする弁護士だが、所詮、暴力には屈指ざるを得ない状況でしかない。
ならず者たちの暴力はエスカレートし、遂に、その弁護士も、銃を手に取り、決闘ということに相成る。当然、誰もが勝負の行方が見えているが、そこで、ある意味、奇跡的なことが起きる。
だが、決して、ご都合主義ではない。ここに、フォードの矜持を嗅いだ。
西部劇の流れを変え、社会派西部劇と認知される「真昼の決闘」(1952)のような立場に置かれる弁護士。町や住人のために立ち上がった人間が、自分に火の粉がかかるを毛嫌いされ、孤立無援となる作品だ。
逆に、気骨ある人間は、仲間のために死ねるさ、という「真昼の決闘」に喧嘩を売ったハワード・ホークス監督の「リオ・ブラボー」(1959)がある。
その双方が融合され、フォードなりの解釈で描かれた作品だと感じた。
極端に違う双方の作品と繋ぎ役的に描かれるのは、気弱な太っちょの保安官や、アル中の新聞社主幹、医者などの住人ら。
つまり心情的にはスチュワートを応援するが、誰もが自分に自信がなく、命を賭しても良いとまでは思っていない。
そこに、あくまで脇役として徹してきたウェインが、見事に絡んでくるのだ。
徐々に盛り上がる進行で、ラストは涙を禁じ得なかった。
主演のウェインとスチュワートが適役で見事だし、それまでは『強烈な』悪役という印象のリー・マーヴィンが、『上手い』悪役として認知された。
更に、脇を固める、新聞社主幹のエドモンド・オブライエン、気弱な太っちょ保安官役のアンディ・デヴァインも印象的だ。
そして何よりも、強烈な印象を残すのが、ウェインの従僕で無口な黒人役のウッディ・ストロード。まるで晩年の高倉健のようであり、後年のフォード作品では、常に印象に残る役柄を演じてきた黒人俳優である。
その誰もが自分の役どころを見事に表現している。
本作で描かれる、引き際と散り際の美学は、昔気質の日本人には堪らない、正調派西部劇の秀作である。