スタッフ
監督:ジョン・ブアマン
製作:ルーベン・パーコヴィチ
製作総指揮:ヘンリー・G・サバースタイン、
S・J・セリグマン
脚本:ルーベン・バーコヴィッチ
脚色:アレキサンダー・ジェイコブス、
E・バーコヴィッチ
撮影:コンラッド・ホール
音楽:ラロ・シフリン
キャスト
アメリカ軍大尉 / リー・マーヴィン
日本海軍士官 / 三船敏郎
日本公開: 1968年
製作国: アメリカ セルマー・ピクチャース作品
配給: 松竹映配
あらすじとコメント
今回もリー・マーヴィン主演作。悪役専門の脇役から名を馳せ、円熟期を迎えていたころの作品。かなり異色な戦争映画。
太平洋 とある無人島。第二次大戦下、島に漂着したと思しき日本人の帝国海軍将校(三船敏郎)が、たった独りで、味方が洋上を通りかかるのを待つ日々を送っていた。
そんなある日、ジャングルを探索中に、英語が聞こえて、身を潜めた。アメリカ海軍のパイロット(リー・マーヴィン)が、うなされていたのだ。しかし、物音を立ててしまい、相手に気付かれてしまう。
お互いに、この島には自分のみだと思っていたようだが、何と、いたのは敵である。しかし、パイロットにはナイフがあったが、それ以外の武器は、お互いに何ら持ち合わせていなかった。これでは、簡単に優劣がつかない。しかも、相手が、どの程度の戦術なり、知恵があるのかも分らない。それでも、敵同士である。
そこで、お互いが考えたのは・・・
絶海の孤島で繰り広げられる人間同士の諍いを描くドラマ。
文化も違えば言語も違う。しかも、戦時下で敵同士。登場人物は、このたった二人だけ。
自分しかいないと思っていた無人島に、たった一人の敵が存在することを認知し合う。
多勢に無勢ではないので、自決なり、投降はあり得ない状況。しかも武器もない。
先に漂着していたのは日本兵で、水のある場所を確保し、海に魚を獲る罠を設置したりしている。
アメリカ兵は、何もない状況で、当然、まず、水場の攻防となるのだが、はっきり言って同レベルの人間。どちらも直情型で、割と思い付きの行動にでる。
それが偶然当たったり、当然、外れたりの繰り返し。
作劇としては、致し方ない設定なのだろう。かつての西部劇よろしく、白人優位という単純な設定には製作年度を考えてもできまい。
実は、そこにこそ、本作の落とし穴があると感じた。
描きたかったのは、戦争とはかくも無益なものであり、敵でも味方でもなく、『人間同士』として理解し合えるかどうか、であろう。
確かに置かれた状況を考えれば、「ひとり」よりは「ふたり」である。とはいえ、協力し合わないと二人共、殺されてしまうような猛獣などはいない。それでいて、水や食料は最低限だが存在する。
ということは、諍いを繰り返しながらも、生存欲求から、やがて協調し合う展開になるのは、想像に難くないのである。
しかし、そんな単純に終わるわけがない。何故なら、どちらにも味方が居ないから。
お互いが、己の価値観と経験値でしか判断、行動できないし、異文化の異人種故に、どこまで信頼できるのかと疑心暗鬼。
ラストに、どちらかの陣営に発見され、片方が捕虜なり死ぬなりする展開は、それまでの進行からあり得ないだろうと、誰もが想像するに違いない。
パラオで撮影されたので、絶望的に美しい背景の中で、小さな人間同士がいがみ合ったり、なんとなく理解しあえそうになったり。
戦争の虚しさと愚かさを説くには一応の成功を収めていえようか。
ただし、ご贔屓のリー・マーヴィンは兎に角、日本を代表する三船敏郎は、演技の組み立て方がおかしいと感じた。
名前もなく、階級すら知りえない役柄設定。しかも、アメリカ映画なので完全アウェーな状況であったのだろう。
映画の終盤、放棄された米軍施設内で、『LIFE』誌に載っている日本兵の無残な死体写真を見る場面で、「泣いてくれ」とブアマン監督に言われたが、「日本軍人は、絶対に泣かない」と強硬に突っぱねたとも聞く。
しかし、それにしては、帝国海軍将校としての立ち振る舞いとして、疑問符が付く場面が多い。
そもそも将校か、下っ端の水兵かは明かされていないが、終盤で「自分は海軍大佐」と大声を上げる場面がでてくる。
そこで、完全におかしいと思ったのだ。極限下とはいえ、それまでの言動に「海軍将校」としての威厳がないのだ。まして、「大佐」という階級である。
恐らくは、アメリカ側に、映画だからと、説得されたのかもしれぬが、それでも、いつもの三船らしくない。
そこに、どうしてもアメリカ映画としての限界を感じざるを得ない作品。
そのジレンマは、フランク・シナトラ監督主演で、三橋達也がでた「勇者のみ」(1964)や、クリント・イーストウッド監督、渡辺謙主演の「硫黄島からの手紙」(2006)でも感じた。
やはり、日米双方をを同等に描くには、どうしても日本人気質が共鳴しないのは、こちらの心の狭さなのだろうが。