スタッフ
監督:マーク・ロブスン
製作:テロン・ウォース
脚本:チャールス・カウフマン
撮影:ウィントン・C・ホック
音楽:ディミトリ・ティオムキン
キャスト
モーガン / ゲーリー・クーパー
コベット / バリー・ジョーンズ
マエーヴァ / ロバータ・ヘインズ
トゥーリア / モイラ・マクドナルド
フィーバー / ジョン・ハドソン
トンガ / マーミア・マツムラ
クーラ / ハーバート・オゥ・シュウ
秘書 / エズラ・ウィリアムス
ホーキンス / ジョージ・ミーディスク
日本公開: 1958年
製作国: アメリカ アスペン・ピクチャー作品
配給: ユナイト、松竹洋画部
あらすじとコメント
南の島。そこに戦争が絡んだり、むせ返るようなドラマがあったり。前回のようにミュージカルだってある。今回は、白人男がやって来て、島民たちに様々な影響を及ぼす人間ドラマにした。
ポリネシア、マタレヴァ島その島には、20年来、布教活動のため住んでいる宣教師コベット(バリー・ジョーンズ)がいた。
たった一人の白人であり、敬虔過ぎる性格ゆえ、朝夕の礼拝は『番人』と呼ばれる部下たちが、強制的に全島民を参加させ、若者たちの恋愛禁止、女性が肌を露出させることもご法度、歌や踊りも封印、一切、娯楽もなく、笑うことさえ許されないという島にしていた。
一番最初はコベットの父親が来島し、教会を建造し、島民の誰もが尊敬する人物による布教であった。しかし、彼が継いでから、絶対的君主へと変貌していったのだ。
そんなある日、沖で船が故障したアメリカ人モーガン(ゲーリー・クーパー)が、しばし滞在するために来島してきた。白人は島の治安を乱す、と直ちに退去命令をだすコベット。
あまりにも傍若無人な物言いに、不快感を持ったモーガンは、力づくで追いだしにかかった番人たちを投げ飛ばしてしまう・・・
個人主義という蓑を被った白人たちが巻き起こす波風を描くドラマ。
独裁者が君臨する南の島にやってくる自由人の主人公。自分に火の粉がかかれば、棒切れやらショットガンで威嚇してまで、徹底抗戦するが、虐げられている島民らには、我関せずというスタンスをとる。
ある意味、自由社会の男で、完全に個人主義だ。
だが、島民らは、彼こそ救世主だと思うようになるのは、当然の理だろう。
誰だって、自由は欲しいのだ。そこで、島民たちは、密かに主人公を懐柔にかかる。統治者も目の仇にはするが、腕っぷしが強く、喧嘩っ早いのでうかつには手をだせない。
次の船は四か月後ということもあり、自ら木とヤシの葉で家を作り始める。そうなれば、協力する島民もでてくる。
いの一番は、美しい若い女性だ。当然、未知の西洋人を好奇の目で見ているし、ある意味、進歩的女性ゆえ、統治者や番人らにも反抗的。
男女が近づけば、何が起きるのかは誰もが知ること。
やがて、島民たちは決起し自由を勝ち取るのだが、主人公の恋人が妊娠したことも判明する。
そのあたりから主人公の態度が変化していく。良い方にでなく、悪い方にであるのだが。
そして、第二次大戦が始まり、映画は第二章へと突入していく。
そこで、不時着した米軍兵士らも絡んできての人間ドラマが繰り広げられるのだが、主題は「白人の差別意識」と「輪廻回生」。
興味深いのは、主人公はヒーローの態で登場するが、中盤からイメージが急変すること。一方で、統治者は島民たちの素直な気持ちに揺り動かされ改心し、まるで、こちらが主役であるかの様な温和な人間へと変貌していく。
そして、第二次大戦下の時代になると、成長した主人公の娘が、不時着した米軍将校と心を通わすようになっていく。まるで、自分が来島した時と同じような相手にである。
ただ、相手が、主人公同様、やはり自己を持っていると誇示しつつ、結局、南の島の魔法にかかった米軍将校なのだ。
思い起こせば、かつての自分がそうであったように、異国の地で現地人女性に慕われ、欲望優先で世捨て人を気取ろうとした結果、何が起きたのか。まして、対象相手は自分の娘だ。
当時、自分はどう行動し、現在に至っているのか。複雑な心境に落ちいていくのは当然。
では、一体、何が『楽園に帰る』のか。
当然、この場合の意味は、場所的なことだけではない。原作が書かれた時代性もあるが、やはり、『南の島』にあこがれる人間は、現在でも多くいる。
しかし、そういう大自然の中でこそ、浮かび上がる「思い上がり」と人間としての「器の小ささ」。
マーク・ロブスンによる演出が些か凡庸なので、興味を削がれるが、南の楽園が好きな自分としては、妙に後ろ髪を引かれる作品でもある。