スタッフ
監督:ダニエル・マン
製作:ハル・B・ウォリス
脚本:ケティ・フリングス
撮影:ジェームス・ウォン・ホウ
音楽:フランツ・ワックスマン
キャスト
デレーニ / バート・ランカスター
マリー / テリームーア
フィッシャー / リチャード・ジャッケル
ローラ / シャーリー・ブース
アンダーソン / フィリップ・オーバー
ヒューストン / エドウィン・マックス
コフマン夫人 / リサ・ゴルム
カニンガム / ウォルター・ケリー
医学生 / ウィリアム・ハード
日本公開: 1953年
製作国: アメリカ パラマウント作品
配給: パラマウント
あらすじとコメント
前回の「合衆国最後の日」(1981)では、籠城犯役のバート・ランカスターと籠城される基地の士官役でリチャード・ジャッケルが共演していた。今回も、その二人が共演した作品を選んだ。ポリティカル・アクションとはまったく異なる重厚な人間ドラマ。
アメリカ 中西部アルコール依存症から脱却しつつある指圧療法師のドン・デレーニ(バート・ランカスター)とローラ(シャーリー・ブース)夫妻。
彼らに子供はおらず、空き部屋を貸しだしていた。そこに大学に通うマリー(テリー・ムーア)が間借したいと申し出てきた。若くて清廉さを感じさせる彼女に夫妻は喜んで部屋を提供した。
早速引越してくるマリーだが、同じ大学でスポーツマンのフィッシャー(リチャード・ジャッケル)が色目を送っている。マリーには、昔の知り合いで、彼女に求婚している相手がいるが、所詮、若い彼女も、悪い気はしないらしい。自分の娘のように思い込んだデレーニは、どうにも、フィッシャーが遊び目的で近付いているようにしか思えない。
方や、フィッシャーは、自分に不機嫌な態度を取るのは、君に好意があるからだと、マリーに告げて・・・
過去のトラウマを引き摺る中年夫婦の葛藤を描く人間ドラマ。
紳士然としているが、神経質さが強く漂う夫。そんな夫に気を遣って、どうにも情緒不安定さが際立つ妻。
何やら、妻には夫に対して、かなり卑屈にならざるを得ない事情があるようだ。そこに、思春期特有の危うさを持つ若者たちが絡んでくる。
何故、中年夫婦の関係がギクシャクしているのかというミステリアスな部分と、主人公が本当に、間借り人の若い娘に気があるのかというサスペンス的要素などが描かれ、気の重いドラマが展開されていく内容。
タイトルにある『シバ』とは、夫婦が飼っていた愛犬の名で、半年以上も行方不明になっている。
夫に何らかの劣等感を抱いている妻は、常に誰彼構わず、その犬が戻って来ないかと言い続けている。
そのことからも解るように、本作のテーマは『喪失感』と『絶望』である。
何故、主人公はアルコール依存症になったのか。しかも、妻は何の理由で、食器棚に一本だけ未開封のウィスキーを置いてあるのか。もしかして、夫を試しているのか。
しかし、そういう風情でもない。では、どうして妻は主人公に強くでられないのか。
確かに興味をそそる内容と進行なのであるが、主役二人の息苦しさを滲ませる神経質な演技が、どうにも気色悪いと感じる。
それこそが本作の映画としての狙いなのだろうが、観ている側は冒頭から、息苦しさの連続で呼吸困難を感じるほど。
要は、完全に舞台劇の内容なのだ。それを鷹揚な編集で見せるから、どうしても、リズム感が狂う。
時代性なのだろうが、中盤以降、その鷹揚さによる、どこかぶった切り感のある編集が、主人公の裏の『情緒不安定さ』を際立たせていると感じた。
ただ、ラストには嫌というほど見せつけられてきた『絶望』から『希望』へとスムースに移行していく点に注目すべきだろう。
何と言っても、観ている側の神経を逆なでし続ける妻役のシャーリー・ブースの演技が白眉であり、アカデミー主演女優賞を獲ったのも頷ける。
一方のランカスターは、頑張っているものの、大袈裟な香りが沸き立つ。
「失われれた週末」(1945)のレイ・ミランドや「黄金の腕」(1955)のフランク・シナトラなど、ジャンキーというか、アル中の役柄はアカデミー賞への近道だが、本作のランカスターはノミネートすらされなかった。
古き良きアメリカの中流階級の等身大の人間の脆さを謳う点では評価できる作品ではある。