スタッフ
監督:ピーター・フォンダ
製作:ウィリアム・ヘイワード
脚本:アラン・シャープ
撮影:ヴィルモス・ジーグモンド
音楽:ブルース・ラングホーン
キャスト
コリングス / ピーター・フォンダ
ハリス / ウォーレン・オーツ
ハンナ / ヴァーナ・ブルーム
ダン / ロバート・ブラット
マクヴェイ / セヴァーン・ダーデン
ルーク / テッド・マークランド
メイス / オーウェン・オール
ソレンソン夫人 / アン・ドーラン
ジェイニー / ミーガン・デンヴァー
日本公開: 1972年
製作国: アメリカ パンド・プロ作品
配給: CIC
あらすじとコメント
前回の「イージー・ライダー」(1969)は、アメリカン・ニュー・シネマの金字塔であり、ピーター・フォンダが製作と主演を兼ねていた。そんな彼が監督と主演を務めた西部劇をチョイスしてみた。ニュー・シネマ的内容は共通であるが、対比して見るとフォンダと前回の監督デニス・ホッパーのスタンスの違いが浮かぶ興味深いものがある作品。
アメリカ 西部旅を続ける三人の男。コリングス(ピーター・フォンダ)とハリス(ウォーレン・オーツ)は、7年も一緒に旅を続ける仲間であったが、そこに若者のダン(ロバート・プラト)が加わった。ダンは、ひと山当てることを目論み、年長のハリスは、まだ見ぬ海が見たいと思いつつ、三人はカリフォルニアを目指していた。
そんな彼らは、小さな寒村に立ち寄った。そこはマクベイ(セヴァーン・ダーデン)が牛耳っていたが、ほんの数人しかいない場所であった。何か嫌な予感がするコリングスであったが、どうせ旅の途中であり、一晩だけだと思い、馬を下りた。
その晩、安酒に酔った三人だったが、突然、コリングスが、旅を止め妻子の元へ帰ると言いだした。40歳を超えたスミスには彼の身上が理解できたが、若いダンには納得できぬ発言だった。それでも、静かに自分の意志を貫こうとするコリングスに嫌気が差し、ダンは酒場に酒を買いに行く。
中々、戻ってこないダンに不安を感じた二人は酒場に行くが、そこに彼の姿はなかった。どうやら女を探しに行ったらしい。
その時、外で銃声が響いた・・・
「自分探し」で、自分を見出した結果に見えてくるものを描く西部劇の姿を借りた人間ドラマ。
物静かな主人公。あうんの呼吸で旅を共にする相棒。そして若者。
中でも主人公は自分探しのために妻子を残し、ふと旅にでた男だ。面白いことも起きず、大金を手にするでもなく、野宿しか出来ない人生。
そんな旅の果て、何てことない経験値だけ積み、結局、家に戻ろうとする。
そんな彼らは、寒村でのトラブルから若者が死に、残った二人が、今でも居るかどうかわからない妻子の住む主人公の家に戻る展開となる。
果たして、妻子は住み続けていたが、突然の身勝手な夫の帰郷に当惑するというか、拒絶される。
しかし、主人公の意思は揺るぎなく、使用人としてでも良いから居させてくれと静かに懇願する。
そこで主人公、妻、相棒の三者三様の価値観というか、生き様が浮かび上がってくる。
「イージー・ライダー」では、不当に得た大金を持ち、バイクに乗って旅にでる話であるが、本作は、逆に放浪の末に孤独と達観を見出し、結局、人間とは心身共に落ち着ける終の棲家が欲しい生き物であると結論付ける。
しかし、それはあくまで「男目線」であり、アメリカという「個人」優先の価値観でもある。
当然、そのことが、他人にどのような印象や影響を与えるのか。
その、ある意味での結論も提示していくのだ。
ガンファイトも登場するが、あくまで人間ドラマであり、それぞれの複雑な心の襞が描かれ、人間とは、一つの満足を得ると、更なる欲望が沸き立つ罪深き生き物なのだと提示してくる。
愛する人のいない孤独から家族を持つことで更に別な孤独感が襲ってくるというジレンマ。
全編を通して、静かに描かれていくのだが、ヴィルモス・ジグモンドによる、しっとりとしたカメラ・ワークとストップ・モーション、フェード・アウトやオーバー・ラップという映画的技法で、独特のリアリズム溢れるリズム感を重ねていく。
出演陣では、相棒役のウォーレン・オーツが圧倒的な存在感を醸す。特にラストでの遠景の姿に、観る側に男の黄昏と、静かだが、強固な意志を汲み取らせる演技は見事。
これぞ、アメリカン・ニュー・シネマと確信させられる作品であり、以前までとは全く違う西部劇でもあり、心に残る逸品だと確信する。