スタッフ
監督:アンドレイ・タルコフスキー
製作:レンツォ・ロッセリーニ、マノロ・ボロニーニ
脚本:A・タルコフスキー、トニーノ・グエッラ
撮影:ジュゼッペ・ランチ
音楽:ベートーヴェン、ヴェルディ他
キャスト
ゴルチャコフ / オレグ・ヤンコフスキー
ドメニコ / エルランド・ヨセフソン
エウジニア / ドミツィアナ・ジョルダーノ
ゴルチャコフの妻 / パトリツィア・テレーノ
髪にタオルを巻いた女 / ラウラ・デ・マルキ
ドメニコの妻 / デリア・ボッカルド
清掃婦 / ミレナ・ヴコティッチ
農夫 / アルベルト・カネーパ
日本公開: 1984年
製作国: イタリア、ソ連 ライ&オペラ・フィルム作品
配給: ザジ・フィルムズ
あらすじとコメント
前回の「キリング・フィールド」(1984)では、西側ジャーナリストよりも、内戦の国で必死に生き延びようと放浪する男のほうが印象的であった。今回も、荒涼とした中での旅的な作品。ただし、非常に難解な心象風景を綴った芸術作品。
イタリア、トスカーナモスクワから来た詩人のゴルチャコフ(オレグ・ヤンコフスキー)は、通訳のイタリア人女性エウジェニア(ドミツィアナ・ジョルダーノ)と18世紀のロシアの音楽家の軌跡を辿る旅を続けていた。
その旅も、ほぼ終わりに近付いてきていたが、折角、イタリアまで出向いてきているのに、ゴルチャコフは何ら音楽家に近付けないと感じていた。
そんな彼が、宿泊先である温泉地のホテルで、元々はソ連の詩人よって書かれたものをイタリア語に翻訳した詩集を読んでいると、エウジェニアが、詩などは翻訳できるはずもないと突き放すように言ってきた。
どうやら彼女には複雑な心情が存在するようだった・・・
ストーリィ的内容よりも連続する映像をどう汲み取るか、という問い掛けをしてくる厄介な作品。
18世紀にイタリアを彷徨い、帰国すれば奴隷の生活を強いられるのを知りつつ帰国し、自殺した音楽家。そんな人間に惹かれ、遥々、来た詩人の男。
それだけで、厄介なタイプな男と推察できる。そんな詩人に興味を持ちつつ、自分を一切女として見ないことに複雑な心境を抱き続けるイタリア女。
そこに、滞在先の温泉地で「狂人」と揶揄される男が絡んでくる。
その男も只者ではないが、詩人も只者ではない同士ゆえに妙に惹かれ合うのだが、それも何とも厄介な関連性。
つまり、本作はストーリィの整合性を追い駆けるよりも、タルコフスキーの息吹を感じさせる映像表現に身を委ねつつ、自分との葛藤を楽しむような作品。
どこまでも薄暗いシーンの連続。濡れたというか、湿気を痛切に感じさせる画面に、逆に独特の虚しさを喚起させて心の乾燥を体感させ続ける印象は、常に雨や霧という場面で構成されているからであろうか。
そんな心の枯渇感を、更に強調するのが『水』の映像。廃屋の中に淀む水たまりに、風もないのにさざ波が立つような水面、温泉の表面にかげろうのように映り込む風景。
そういった独特な『湿気』。
カメラの長廻しによる、得もいえぬ退廃さと退屈さを滲ませる。
どれもが登場人物たちの心模様を炙りだすように、成熟した大人ゆえの葛藤や絶望。行き場のない心と行き詰まり感。
イメージとして頭の中で構成されていた価値観と、実際に旅をし、経験することによって発生するジレンマ。
インテリゆえの葛藤ということだろうか。それにしても、観客を選ぶ作品である。
タイトルの「ノスタルジア」は、映画の舞台であり、製作のメインを仕切ったイタリアの言語で「郷愁」である。しかし、スペルは違い、「ノスタルギア」だという点も考察すべきだろう。
パンフレットからの引用であるが、ダーリのロシア語辞典によると『心の病としての望郷の想い』だそうだ。更には、当時のソ連を離れての監督の心象と心情。
『故郷は遠きにありて思うもの』的回顧の念。
そういったタルコフスキーの映像表現は、ロシアの歴史なり、国民性なり、映画作品ひとつ取っても不勉強な人間、自分を含めて、には、非常に難解な作品であるが、妙に琴線に訴求してくるから厄介なのである。
芸術性の高い作品であるが、完全に見るものを選ぶ映画でもある。