スタッフ
監督:フェデリコ・フェリーニ
製作:アンジェロ・リッツオーリ
脚本:F・フェリーニ、トゥーリオ・ピレーニ、他
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ニーノ・ロータ
キャスト
アンセルミ / マルチェロ・マストヤンニ
ルイーズ / アヌーク・エーメ
クラウディア / クラウディア・カルディナーレ
カーラ / サンドラ・ミーロ
バーバラ / バーバラ・スティール
マドレーヌ / マドレーヌ・ルボー
ロゼッラ / ロゼッラ・フォーク
映画プロデューサー / マリオ・コノッキア
ミステリアスな女性 / カテリーナ・ボラット
日本公開: 1965年
製作国: イタリア チネリッツ作品
配給: ATG
あらすじとコメント
アンドレイ・タルコフスキー作品を二作品取り上げてきた。前回扱った「惑星ソラリス」(1972)は「2001年宇宙の旅」(1968)と比べてしまうし、前々回の「ノスタルジア」(1983)は、今回の作品と比較したくなる。どうにも別な有名監督の作品との相対性を考えてしまう作家であり、今回はこれにした。イタリアの温泉地で繰り広げられる人間個人としての矛盾と不安を描いている点が似ているから。ソ連のタルコフスキーと違い、イタリアが生んだ天才フェリーニなりの表現に注目したい。
イタリア、ローマ43歳になる映画監督のアンセルミ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、新作準備中であるが、何から何まで上手く行かないとジレンマを感じながら病院に行った。医師から転地療養が良いだろうと温泉地で安静にせよと言われる。
素直に従い、妻ルイーザ(アヌーク・エーメ)や愛人のカルラ(サンドラ・ミーロ)らを置き去りにして温泉地に行くが、そこでも、知り合いの映画関係者が多くいて、彼を閉口させた。何とか映画の構想を進めようとするが、更に混乱し、益々ジレンマに陥って行く。
すると愛人カルラが追い駆けてきて・・・
フェリーニの自伝的要素の濃い内容を見事に映像化した秀作。
行き詰った映画監督。エゴイストであり、現実逃避が得意技。そのくせ、真面目でジレンマに陥る。
成程、芸術家というのは、通常の凡人とは違う人種なのだと提示してくる。
プロデューサーは核戦争後の人類を描くSF大作にしたいと巨大ロケット発射台のオープン・セットまで組んでいる。しかし、主人公は、そんな単純な映画には興味がない。そのくせ、何をしたいのか決まらない。更に辛辣な評論家は自己欺瞞の果てに天下の最低作を作るだろうと言ってくる。
そこで、悶々とする主人公は妻を呼び寄せるが、愛人まで彼を追ってきてしまう。
ただし、決してストーリィのみを追ってはいけない作品である。
何故なら、温泉地で起きる現実と主人公の頭の中で繰り広げられるイマジネーションや妄想が並走し、それこそが主人公の存在そのものだと迫って来るからだ。
リアリズムとファンタジーが渾然一体となって、これぞ映像表現に与えられた特権であるとばかりに、こちらの心を鷲掴みにしてくる。
理路整然としたインテリ風な作劇ではなく、あくまで子供の頭の中と成熟した大人の男の欲望が、当たり前のように浮かび、それをこちらに見せ付けてくる手腕には脱帽した。
以後のフェリーニ作品に多大な影響を与え、事実、太った巨女やサーカスのピエロを思わせる、どこか寂しさを醸す人物など、監督のイマジネーションが具現化し、本作以降も、同じ作風でどの作品にも登場してくる人物像。
ある意味、彼の作品を見ていく上で、重要な転換期となった作品であり、タイトルの「8 1/2」は、フェリーニが共同監督した一本を「半分」として含めた、以前まで監督した作品の総数である。
また、映画とは何かを生涯自問し、別な視点から、同じ題材を描き続けた監督であると感じている。
本作では、優柔不断というか、神経症的ジレンマを常に感じさせ続けてくるので、人によっては、グロテスクさが強調され、どこか置いてけ堀感まで増幅させられて悪酔い感覚に陥るかもしれない。
しかし、それすら、フェリーニの意図するところだろう。
何とも不可思議な感覚に引き摺られ、何ら映画として昇華しないまま終わるかと感じていると、ずっとジレンマに陥っていた主人公が、突如、閃き「人生は祭りだ」という号令一下、ニーノ・ロータの哀愁とロマンに満ちた音楽に乗せて描かれるラストは、映像表現としての『映画』が、ひとつの頂点を極めたといっても過言ではないと鳥肌が立つ。
シュールなファンタジー性を貫き、それでいて素直な童心さを感じさせる映画史上の秀作である。