スタッフ
監督:エルマンノ・オルミ
脚本:エルマンノ・オルミ
撮影:エルマンノ・オルミ
編集:エルマンノ・オルミ
音楽:ヨハン・セバスチャン・バッハ
キャスト
バティスティ / ルイジ・オルナーギ
バティスティーナ / フランチェスカ・モリッジ
ミネク / オマール・ブリニョーリ
トゥーニ / アントニオ・フェラーリ
未亡人 / テレサ・ブレッシャニーニ
アンセルモ / ジュゼッペ・ブリニョーリ
ペッピーノ / カルロ・ロータ
テレシーナ / パスクゥアリーナ・ブロリス
ピエリーノ / マッシモ・フラートゥス
日本公開: 1979年
製作国: イタリア ルーチェ・イスティチュート作品
配給: フランス映画社
あらすじとコメント
イタリアの監督エルマンノ・オルミ。大好きな監督であり、前回紹介した「聖なる酔っぱらいの伝説」(1988)は、イタリア人視点でパリの息吹を見事に描写していた。今回は、母国イタリアを舞台にした、とある貧しい家族の壮大な大河ドラマ。静かな視線ながら、見事なる饒舌さを感じさせる秀作。
イタリア、北部ロンバルディア地方19世紀の終わり頃。イタリアは統一されたが、まだまだ階級格差が歴然と残っていた。
とある田園地帯に貧しい一家四組が住む長屋的家屋があった。全一家の生業は農業。とはいっても土地家屋、樹木から農具、一部の家畜までが地主の所有物。しかも作物の三分の二は搾取されるという厳しい状況下での生活である。
その中のバティスティ(ルイジ・オルナーギ)一家は、神父から息子の一人ミネク(オマール・ブリニョッリ)だけは学校に行かせよと言われ困惑した。学校まで片道6キロもあり、何よりも貴重な働き手の一人だったからだ。自分も学校に通えなかったバティスティは、文盲であり、確かに学があれば将来、少しはマシな生活が送れるかもしれない。
また、神父は、亭主に先立たれ、祖父と子供を六人も持つ未亡人に対し、下の娘二人を修道院に預けたらどうかと進言する。
そんな状況の中・・・
抑圧された極貧家族たちの苛酷な運命を描く見事なる秀作。
赤貧ゆえ、淡々と農業を続けるしかない人々。そんな人間たちの日常を付かず離れず追い続けるのだが、貧乏ゆえの悲劇性が常に伴う展開には、何とも胸がつかえる内容である。
時代と環境もあろうが、不便と無学が当然の状況下でも、独自の知恵を持ち、トマトの栽培で誰よりも早く収穫出来る老人がいたり、その過程を不思議そうに見つめる少女のシークエンスや、若い娘の控えめな恋模様などの暖かな部分もあるが、殆どが暗い内容。
ストーリィ的に劇的な展開は、一切見せず、まるでBBCかNHKのドキュメンタリー番組のような内容。
しかし、オルミ監督の視点は一切ブレない。登場人物たちも職業俳優はほとんど起用せず、本物の農業従事者の素人たち。
それでいて見事な存在感を画面に刻む。まさしく第二次大戦後に世界を席巻した『イタリアン・ネオ・リアリズム』の踏襲である。
過酷で極北さを感じさせる画面に流れるのはドイツ・バロック音楽の大家J・C・バッハの楽曲群。
取れた作物の残りは、家畜の餌や次の作物のための肥料にする。貧しくも生きるためには細々した物も無駄にせず、楽しみも集会所で皆が話したり、女性は編み物をしたりして過ごすだけ。
また、アヒルや豚の屠殺から解体を丹念に描き、見慣れぬ人間は目を背けたくなるほどの残酷さの中に、命の尊さを描きこむ。
本当に最低限の状況下で「生きる」ということ。
タイトルの「木靴」は、ちゃんとした靴が履けない階級の人間たちを指す言葉。つまり木を削ってスリッパのように履く代物を指す。
確かにスリッパでホテルの廊下を歩くだけで蔑まされる対象となるのは現在も同じである。
以前、北イタリアに滞在していた折、現地の友人らから、本作のタイトルは完全なる差別用語として使用されると聞かされたことがある。
しかし、それしか靴として使用できない人間もいたということである。
そんな木靴が終盤で重要な意味を持つ。虐げられ続けた人間たちと搾取するのが当然の側という階級の問題をも提起してくるのは社会主義的映画製作者の常套手段でもあるが、それでも、本作は立派な大作であり、荘厳なる告発映画としても機能している。
人間が生きるという営みと絶望。三時間にも及ぶ長編の中、淡々とした筋運びに眠気を催す観客がいることを理解した上で、それでも筋が一本、ピシッと通ったオルミ演出には脱帽せざるを得ない秀作。