大学時代のサークル同窓会に参加してきた。8ミリによる映画製作と演劇集団で、当時、大学に八つの「映画サークル」があったが、その中でもセミプロ集団と呼ばれていた仲間たち。
現在は廃部になったが、第一期から自分がいた第五期までの合同会。つまり、自分らが一番年下であり、この年代になっても、妙に上下関係があり、まるで体育会系OB会の態。
なので、自分らの期で、現在も映像関係で活躍する有名人もいるが、そいつらはいじられるのが嫌で欠席。それでも、懐かしんで長野や仙台からわざわざ出向いてきた仲間もいた。
アラウンド還暦世代で、定年退職したり、早期退社したりとしているが妙に、昔にタイム・スリップし、若僧時代のように振る舞うから面白い。ただ、寄る年波で酒に弱くなった奴もいたのには苦笑したが。
兎に角、皆、十数年振りの再会を楽しんだが、中には疲労困憊の奴も。
そいつは、卒業し某大手電力会社に入社し順風満帆のはずだった。だが、例の大震災が一変させた。
彼自身、震災の一年前まで福島の第一に勤務していたと。震災時、TVのニュースを見つつ、在所時は「マイクロシーベルト」しか知らなかったが、「ミリシーベルト」という単位が報道され、大本営発表で「水蒸気爆発」と呼称された映像を見て、これは終わったと瞬時に思ったと。
その後、お客様相談センターに配属されたが、心労から自殺を考えたとか。
だが、同情できなかった。我々の持って行き場のない噴飯が直接届けられるのはそこだった。
出世コースでもなんでもなく、単に就職先がそこであり、天下りも視野に入れての人生設計だったのだろう。それでも奴は、居続けると明言した。奴なりの責任感なのだろうか。
そこには仙台の泉区で被災し、現在でもそこで暮らす仲間もいた。震災発生時、自分の家は高台にあり生き残れたが、何十人も知り合いが死んだと。
そいつも、辛い思いをしたのだろう。それでも、そこで生涯を終えたいと。また、学生時代、単身で上京しロクなものを喰ってなかったので、一度だけだが、自分の実家で御馳走になった、母手作りの天ぷらそばが忘れられないとも言っていた。
人生は人それぞれだ。震災から五年経った現在でも、東北方面の食材は購入しない人もいる。それも価値観であり、否定はしない。
だが、自分は後何年生きられるかと思えば気にはしない。
そもそも「チクロ入飲料」やら、「アスベスト校舎」で生活してきた。それとは関係なく、好き勝手で生きてきた挙句、「不治の病」の生活習慣病に罹っている。
電力会社にいる奴に、お前の所為ではないが、お前の所為でもあるぞと言ったら、仙台の奴も静かに頷いた。奴は、そうだよなと小さく答えた。
やはり、幾つになっても大人になりきれない自分。でも、この性分は嫌いじゃないから、困るんだよな。