スタッフ
監督:ジャン・コクトー
製作:アンドレ・ポールヴェ
脚本:ジャン・コクトー
撮影:ニコラス・エイエー
音楽:ジョルジェ・オーリック
キャスト
オルフェ / ジャン・マレエ
ウルトビス / フランソワ・ペリエ
女王 / マリア・カザレス
ユーリディス / マリー・ディア
紳士 / アンリ・クレミュ
裁判官 / ジャック・ヴァレンヌ
判事 / ピエール・ヴェルタン
アグラオニス / グレコ
作家 / ロジェ・ブラン
日本公開: 1951年
製作国: フランス、L・F・デュ・パレ・ロワイヤール作品
配給: 新外映
あらすじとコメント
同性愛者の映画で繋げてきた。今回は、その手の映画の中で最高峰の作家による作品をチョイスした。ギリシャ神話をモチーフとした詩人らしいモノクロで綴られる映像詩。
フランス、南部とある街中に芸術家や詩人志望の若者ばかりが集う『詩人カフェ』があった。そこには皆の羨望の的でもあり、嫉妬の対象でもある詩人オルフェ(ジャン・マレー)がいた。
そこに超高級車がやって来て、中から泥酔状態の若者セジェスト(エドアール・デルミット)が降りてきて、オルフェを誹謗しつつ、詩を書いてある紙片を晒した。制止しようとした仲間らと大乱闘になり、警察が出動してくる騒ぎとなってしまう。警官に逮捕されそうになったセジェストが逃れようと外に飛びだすと、二台のオートバイが爆走して来て彼を撥ねて、走り去ってしまう。騒然となる現場。
すると高級車に同乗していた「女王」と呼ばれる女(マリア・カザレス)が、病院へ連れて行くから証人として同行しなさいとオルフェを指名。三人は、ウルトビアス(フランソワ・ペリエ)の運転する車で走りだしたが、いつの間にか、市街地から離れて・・・
人間と悪魔、生と死の犯し難い双方の領域を描く佳作。
詩人である主人公と妻。女王と呼ばれる女と運転手。そして詩人志望の若者。
モチーフとなっているのは、女王の逆鱗に触れ死んだ妻の後を追って地獄に行った男が、決して妻の姿を見ないという条件で現世に戻るというギリシャ神話の「オルフェス」。
コクトー自身が1927年に戯曲化したものを映像化したのが本作。
登場人物では、主人公と妻が現世の人間で、他の三人は冥界の人間であり、何と女王は『悪魔』である。
当然、現世の人間たちには姿かたちは見えるが、誰も冥界の人間とは思っていない。
主人公の他にも、警察やカフェの若者など、全員が狐につままれた態に陥る展開。
というか、悪魔の使者となった若者が忽然と消えたので、主人公に疑いがかかり、その才能に嫉妬した若者たちが、暴徒化していったりするのだから始末に悪い。
だが、本作は、ストーリィ的な整合性よりも、『詩人』ジャン・コクトーの精神世界であり、彼の価値観の元により紡がれる映画である。
故に、賛否相反する作品だと感じる。例えば、非常に印象的に用いられる『詩』を絡めた脚本。「現世」と「冥界」を描き分けるのに用いられる『映像技術』も、敢えて、ヒッチコックのような、こだわりと計算しつくされた表現ではなく、学生でも思い付く「逆回し」や単純な「オーバー・ラップ」といった単純な技法。
起用されている俳優たちも、若い男優は、どうにも男色家を感じさせる二枚目ばかり。
何とも、そのすべてが、逆にコクトーの計算とも取れる。しかし、これを計算というのは浅はかでもあろう。
詩人としての湧き立つ感性を映画という媒体で一貫性を持たせつつ、どこか不条理な設定を浮き上がらせる。
生きる人間と死せるものの精神構造の乖離と障害。人間とは感情と感性の生き物であり、それは、死しても尚、価値観、否や、魂として生き残っていくのか。
その問いかけの答えが、後半に訪れるサスペンスとして綴られる。
現世と冥界の人間同士は理解し、愛し合うことができるのか。しかし、悪魔や使者たちはパイプ役としての存在であり、各々の感性なり価値観で融合することは、冥界のルールに於いては処罰されないのか。
もし、処罰されるのであれば、それを行うのは一体、何者なのか。
神を作り上げ宗教にしたのは、まぎれもなく『人間』である。また、死後の世界をも生みだしたのも『人間』。
それを大前提にして、「詩」を生みだすことを生業とするコクトーなりの世界観。
故に、主人公の設定も「詩人」である。何とも不条理であり、割り切れぬ存在である『人間』。
そういった感覚を突きながら、何とも強烈に突きつけられのは『愛』である。それは、「恋愛」や「自己愛」という行為なりの『思い』。
決して、「天国」を想定した問答ではなく、あくまで「地獄」を想定し続けるコクトーの精神世界をどう感じるかは、本当にその観客自体の価値観だと思う。
自分としては、大好きであるのだが。