スタッフ
監督:スタンリー・キューブリック
製作:スタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリック
撮影:ジョン・オルコット
音楽:ウォルター・カーロス
キャスト
デ・ラージ / マルカム・マクダウェル
デ・ラージの父親 / パトリック・マギー
デ・ラージの母親 / エイドリアン・コッリ
デルトイド / オーブリー・スミス
トランプ / ポール・ファレル
看守長 / マイケル・ベイツ
ディム / ウォーレン・クラーク
ブロードスキィ博士 / カール・デューリング
刑務所長 / マイケル・ゴーヴァー
日本公開: 1972年
製作国: イギリス、アメリカ キューブリック・プロ作品
配給: ワーナーブラザーズ
あらすじとコメント
今回もキューブリックの近未来SF作品にする。かなり挑戦的な内容で生理的に賛否が分かれる衝撃の問題作。
イギリス、ロンドン近未来の地では治安が悪化し少年犯罪が多発していた。その中でも、デ・ラージ(マルコム・マクダウェル)をリーダーとする四人組は、レイプや浮浪老人への暴行、他グループとの喧嘩に明け暮れる凶悪集団だった。
頭も良く、犯罪の確証を学校や警察に握らせず、限りなくブラックに近いグレーとして君臨していた。ある時は作家宅に乱入し、妻を眼前でレイプする始末。
以後も、金持ちの中年女性宅に押し入り強奪とレイプをしようとしたが、警察に通報されて・・・
破天荒で無軌道な青年を描くSF衝撃作。
独特な言葉を用い、本能の赴くがままに乱暴乱行を仲間たちと繰り返す青年。
中流家庭で両親は優しいというよりも気弱で逃避型で何もできない風情。
他人の尊厳を無視、否や、はく奪し絶望感に落とし込む主人公。
本作の前に製作した「2001年宇宙の旅」(1968)とは全く異なるSF的内容で、違う意味での衝撃を与えてくる。
しかも、生理的な嫌悪感と人間の本能である性的対象のエロスを感じさせない『エロ表現』。
矢鱈とオールヌードが登場してくるのに、何とも無機質なエロティシズムで虫唾が走る。
確かに「2001年〜」より現実世界ゆえに設定にもタイプライターや電話機という、ある意味、21世紀の現状ではそうならなかったという、矛盾と読みの甘さが登場する。
しかし、それらは些末な事象だと感じる。それよりも『若者言葉』の乱用や、大人としての無関心が跋扈し、それが正調だとすら感じさせる社会的肯定感は、現実社会の方が映画のイメージ以上に悪化しているとも感じる。
我こそは文明人という矜持よりも、軽薄さが勝るくせに、脳内変換に関しては自分に甘々という、妙なマウント意識が優先する『自己大人肯定感』。
物語は無軌道な主人公が卑下しバカにした仲間らに裏切られ収監される展開。
そこからが本作の白眉である。時代性など関係なしに「いやらしい大人」たちばかりが登場してくる展開。
こうなるとSFではなく、どの時代であろうと青年から大人へと変身的脱皮するのが人間の『本能』と『性』だと断言してくる。
要は、大人たちに政治利用から洗脳操作され、青年らしい『突っ張ったトッぽさ』が蹂躙、翻弄されていく。
それまでの作劇から、やがては大人に対して反抗的な人間へと逆戻りするのだろうと思わせる。
その読みが当たるのか、どうなのか。そこにも監督の手腕に恐れ入った。
その一例が音楽の起用法だ。クラシックのみだった前作と違い、本作では名作映画「雨に唄えば」(1952)の歌も起用している。
しかもその使い方には鳥肌が立った。当初は主人公が、ある行為をしながら歌う。そしてラストのエンド・タイトルではジーン・ケリーのオリジナル歌唱が登場。
ところが、それまでを見てきた印象からして、明るく健全なミュージカル映画の印象は全く消し去され、嫌悪感と吐き気まで催させるからキューブリックの才能に気色悪さを感じた。
人間の内なる宇宙は、無限の可能性を秘めた希望や夢というよりも、ブラック・ホールであると恐怖感を際立たせて秀逸。
やはり、困ったことにキューブリックの掌中ということであろう。