ある意味、羨ましい。「勇気」やら「感動」を貰える人。特にスポーツ系の名場面などで聞く言葉。
どのぐらい前からかスポーツ系は一切見ないし、してもこなかった。学生時代も嫌いで、なぜ疲れることをしたがるのか理解に苦しんだ。要は自分のようなへそ曲がりで天邪鬼だと素直に入り込めない。
つまり、無関心なのである。だから感動や勇気は貰えない。それを素直に感じて発信や発言できる人は本当に羨ましい。
確かに、映画鑑賞では心は動くのだが、若い頃ほどの衝撃はない。新規事を柔軟に受け入れる資質が失せ、心も老齢化した証左だろうか。それとも硬直化。どの道、良いことではなかろう。
映画だって旧作ばかりに目が行くし、シネコンというシステムやカラメル系ポップコーンの匂いや暗がりで灯るスマホの照明など全部が苦手だ。
それに刺激を受けるとか貰うとか。この表現もよく聞く言葉だ。またぞろ天邪鬼は考える。日本語の使用法として問題じゃないのかと。
だって『刺激』って「刺す」「激しく」だぜ。即死じゃないが、立ち直れないとか、もしくは半身不随にはならないか。つまり、受ければ自分が死に損なう的なことじゃないの。逆なら、傷害加害者だぞ。
言葉の与える印象は難しい。だから感動だって無料でもらって良いのか。否や、タダだから貰う。
確かにセコさ自慢を平気でする自分は、タダという言葉には弱い。つまり、タダモノでツワモノではない。駄洒落ばかり言うのも嫌われ親父だが、かといって新しいことには、まったく付いて行けない。でも、何も無理して付いて行けなくても良いんだよと自己憐憫。
ここで、また雑念が鎌首をもたげる。「付いて行く」のは良いが、「付いて来い」はマズいよな。
じゃ、もっと短くして「付く」が付く言葉だって万別だよな。意味が違うが音としては「着く」、「点く」「突く」「憑く」と多い。
「付く」といって真っ先に浮かぶのは、『手を付ける』。何からを手を付けて良いか解らぬ、とか使う言葉だ。
だが待てよ、『何から』ではなく、『どの異性から』。これはある意味マズいな。
ならば今度は、手を出す。もっとマズいぞ。手に余る、手を焼く。
何だよ、ロクな言葉が浮かばない。結局、自分の人生は手に負えぬ、だな。