これもグローバル化なのか。もしくは集約化とか、均一性とか。
このところTVを見て違和感を覚えるというか、時代なのかと感じるとがあった。
沖縄が好きで、沖縄から関東へと展開するドラマを見ているのだが、妙に違和感がある。沖縄出身の俳優が多くでているのに、方言のイントネーションが「らしく」ないのだ。
先立て沖縄に行ったときも現地の知人とそれが話題となった。どうにも勉強して沖縄人以外が、わざと「っぽく」訛っているよねと。
これはどういうことなのか。思い当たるのは、余程の老人か地元地域から出ないで人生を歩んでいる人ぐらいしか自然に話せないのか。
確かにそうかもしれぬ。自分も何度も訪れているが、当たり前のように方言を話すのはお年寄りばかり。そういう時は通訳が必要なほど。
そもそも「標準語」で育つ環境になった地域が沖縄に限らず数多くあるとも思う。特に俳優やタレントになりたい人は、小さな頃から標準語で話す環境だったのかもしれぬ。
同じ違和を覚えたのがイタリア。これもTV番組で、田舎村の住人の生活や人生を見せる素敵な紀行番組を見たときのこと。
コロナの影響で現地在住スタッフによる密着取材なので、新たな場所が見つけにくいのか、再訪というスタイルの内容に変更している。中には10年振りの再訪で出演関係者が亡くなっていたり、子供が成人に成長していたり。
とある村で当時田舎丸出しの朴訥な農家の青年が中年に差し掛かっていた。面影はあるよなと見ていたら、流暢な「標準語」で話していて驚いた。個人的にはイタリアの良さは地域の方言が当たり前に存在し、郷土自慢をする人ばかりだったこと。
偏屈な自分としては、『イタリアが大好き』と言うからには観光地やグルメとかでなく、イタリアの聞きなれない方言を聞いて、大体どの地方の訛りだと考えるのが好きだった。
そのイメージが崩れた。方言で育ったのに、TVの質問には標準語で返答する。服装も農家の親父さん的じゃない。
現在は不確実な時代だし、流動的でどこか統一性というか、標準枠から外れたくないのだろうか。
つまり、田舎者という差別を受けないために均一性を重視する。別な視点でいえば、直接的に悪く言うのではく、大人の対応的忖度表現で曖昧にする。
そういった世界が狭くなった時代に敢えて敵を作らないのは得策だろう。実際にネットやSNS内のみの罵倒や喧嘩腰でなく、リアルに戦争が起き、クリアな映像で見せられる時代。それでいて同じ病原体起因の世界共通の恐怖が存在する。
そのうち方言が消えて、行く行くは国がなくなれば母国語も消えたりして。既に、江戸弁は消えたからな。
「てやんでぃ」って言ってみたところで、何か「手を病んで」的なことですかと不思議がられたりするのがオチですかね。「スリ」や「アル中」、「手癖が悪い」訳でもねェのによ。