新年度が始まり桜は散る。
雨模様が過ぎ、少し散歩してみた。滅多に通らない場所に幼稚園や学校、神社があり桜が目に入る。満開もあれば、散り際で新緑が芽吹いている木も。樹木の古さなのか、陽当たりの違いなのか。
確かに陽当たりは大事だ。桜なら早く咲いて人を楽しませるが、他の木より早く散っていく。ただし、当たり過ぎると日焼けする。朝日だろうと西日だろうと、人間は褐色化し、物品は色褪せていく。
かといって、陽が当たらないと別な問題も発生するよな。で、ふと考える。自分は他人に対して『アタリが強い』よなと。これは決して褒められるものではない。
ただ、それでも随分と前から価値観が変わり、見知らぬ人間は、ほぼ全員が苦手になった。この価値観の変化は、時の移ろいというか、季節の移ろいとも違う気もする。
何故なら、そのうち同じ気分が巡ってくるとは限らないから。そういえば季節だってわかりやすい四季から変わったと感じる。
「暑い」か「寒い」かが矢鱈と長い。個人的に言い訳をすると「好き」か「嫌い」か、かもしれぬ。
でも、こうも聞いたことがある。人に対して「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「どちらでもない」だよ、と。
つまり、人として『眼中にない』と。意識されてないというのも人間としては魅力が一切ないという証左。
ならば「嫌い」と『アウト・オブ・眼中』は、どちらが人としてキツいのか。恐らく大多数は存在せずが嫌だろう。つまり「無視」とか「スルー」。以前から小学校でさえ「ハブる」という意識的に無視をするいじめがある。強制的に巻き込まれる方は耐えられまい。
それでも横行する。ある意味、これは集団心理の部類に入るか。それとは別に、どのグループにも属せない人間もいるだろう。
まさかとは思うが、何事にも無暗に文句を言いたい輩、昔なら場末に多くいた昼間の酔っ払い、今ならネットで冷静にけしかけるタイプになりはしないよな。どちらも承認欲求だろうが。
となると、やはり無視されるとか、孤独感が人間にもたらす効果は絶大で、絶望とか自棄に向うのか。
有名な惨事で2008年に起きた秋葉原殺傷事件。派遣社員だった男が歩行者天国であった場所にトラックで突っ込み、無差別に17人を死傷させた。
その犯人は、居場所がなく自分の存在はネット内のみ的なことを言っていたとか。自殺をほのめかすと、やめなよとか何人も構ってくれたが、それが増長したら無視され、強烈な孤独から自棄になったと。
結果、死刑が確定し執行されたが、あれだけの惨事を起こし、路地で警察に確保される時の座り込んでうなだれた姿は忘れられない。
たまに事件現場を通ることがあるが、瞬時にそのことを思い出す。恐らく一生涯忘れられない事件。
孤独は自死や殺傷に繋がることもある。だから他人への攻撃が止められないなんて奴はいないことを祈念するばかりだ。かといって、正面切って皆さん仲良くね、など現実味はない。
陽のあたらぬ人間と人当たりの強い人間。何が良いのか悪いのか。正解は、それこそ個人差か。
それでも人の心と同じく時は移ろい、新年度になり、桜は散る。