スタッフ
監督:シドニー・J・フューリー
製作:アラン・ミラー
脚本:ジェームス・ブリッジス、ローランド・キビー
撮影:ラッセル・メティ
音楽:フランク・スキナー
キャスト
マット / マ−ロン・ブランド
トリニ / アンジャネット・カマー
メディナ / ジョン・サクソン
ラザロ / エミリオ・フェルナンデス
スキニー / アレックス・モントーヤ
アナ / ミリアム・コロン
パコ / ラファエル・カンポス
ラモス / フランク・シルヴェラ
牧師 / ラリー・D・マン
日本公開: 1966年
製作国: アメリカ ユニバーサル作品
配給: ユニバーサル
あらすじとコメント
「チャイナ・シンドローム」(1979)の監督ジェームス・ブリッジス。元々は脚本家であり、彼が共同で手掛けた作品。主演はマーロン・ブランドで、ひねりの効いた西部劇。
アメリカ、メキシコ国境の町オホ・プリエト
南北戦争直後のこと。敗軍の兵士だったマット(マーロン・ブランド)が、ボロボロの格好でやって来た。しかし、乗っている馬はアルバーサ種の名馬。
彼は教会に入るとトリニ(アンジャネット・カマー)とすれ違った。すると、トリニは外で待っていたメキシコ人の亭主であるメディナ(ジョン・サクソン)に、たった今、薄汚れた男に乱暴されそうになったと告げる。怒り心頭のメディナは教会に入るとマットに銃を向けた。しかし直後、手下が入って来て彼女が逃げようとしたと言われる。そこで妻の嘘だと気付くメディナ。すると今度はマットに馬を売れと言いだした。何のことはない手下たちの手前、女房が彼の馬を欲しがっていると思い付いた方便だった。当然、断るマット。
その場は何とか納まり、マットは貧農の実家へ戻った。従妹らの歓待を受け、乗って来た名馬を種馬とし、ここを牧場にして貧乏とはおさらばすると高らかに宣言する。
従妹の夫と酒盛りをして前途を祝っている最中、メディナがその馬を奪って行った・・・
奪われた馬を取り返そうとする凝った作りの西部劇。
敗軍の兵士がやっと故郷へ戻ってくる。しかし何故か、そこはメキシコ人の貧しい農家である。
何故、白人である彼のそこが実家なのかとミステリアスな展開になるが、それが種馬と関連して来る。ゆえに、主人公は奪われた馬を取り戻そうとするのだ。
そこに田舎町を牛耳るボスである亭主から逃げようとする女性、ボスからいたぶられ続ける老農民などが絡んで来る。
ただミステリアスなのは、物語ではなく、主人公の設定である。冒頭で教会に入り、戦争で殺戮をしてきたことを懺悔するような信心深さがある。その一方で、馬を売れと言って来たボスを逆に脅すような男でもある。銃なり、喧嘩の腕前は計り知れない。
尤も、この設定は「シェーン」(1953)などで描かれてきた手法である。だが、そこが逆に凝った作りの映画と思わせる展開を見せていくのだ。
なので、消化不良を起こす人もいるだろう。ストーリィよりも以外性。そこに持って来てのクセモノ俳優マーロン・ブランド。
彼だからこそ、一筋縄では行かない進行を期待するファンもいるだろうし、逆に、それでも西部劇の一翼だろうと期待する方もいるであろう。結果、後者の方に軍配が挙がるには挙がる。
当時、弱冠33歳の監督シドニー・J・フューリーの気負った演出も、好き嫌いが分かれるだろう。つまりは、往年の西部劇を期待する進行をさせておきながら、要所要所でリズム感を崩すスタイルなのだ。
どちらかというと腕力よりも知能戦。もしくは『実力』よりも『幸運』として描かれる戦法。一撃で敵を倒すよりも、見栄とハッタリこそが幸運を呼ぶとも思えるような戦術。
当然、そこには等身大の人物像が浮かび、ヒーローとしての存在はない。主役を演じるブランドもリアルな人間として演じているからこそ、逆に不思議な感覚に陥った。
ヒーローでもなく、単純な娯楽西部劇でもない。やはり、当時流行していた「アメリカン・ニュー・シネマ」を意識した作風である。
この監督はデビューも20代後半と早いのは才能があるからなのか、もしくは幸運なのかわからぬが、本作以降は玉石混合の映画を輩出してきた印象。
「思い入れ」と「思い込み」。似て非なるものなのか、それとも共通しているのか。どこか、中途半端な「アメリカン・ニュー・シネマ」を感じさせる異色西部劇の一本と位置付け出来ようか。