スタッフ
監督:カレル・ライス
製作:アーウィン・ウィンクラー、ロバート・チャートフ
脚本:ジェームス・トバック
撮影:ヴィクター・J・ケンパー
音楽:ジェリー・フィールディング
キャスト
フリード / ジェームス・カーン
ヒップス / ポール・ソルヴィノ
ビリー / ローレン・ハットン
フリードの母 / ジャクリーン・ブルックス
ローウェンタール / モリス・カルノフスキー
カーマイン / バート・ヤング
ジミー / カーマイン・カーディーニ
ワン / ヴィック・テイバック
銀行員 / ジェームス・ウッズ
日本公開: 1976年
製作国: アメリカ チャートフ&ウィンクラー・プロ作品
配給: パラマウント CIC
あらすじとコメント
今回もギャンブル狂の話。ただしコメディ要素はまったくない、まさしく「博打は身を滅ぼす」という実に重苦しい嫌な人間ドラマ。
アメリカ、ニュー・ヨーク
大学で文学の教鞭をとるフリード(ジェームス・カーン)。彼は夜な夜な会員制の秘密カジノに入り浸るギャンブル狂でもあった。このところツキに見放され総額4万4千ドルにまで借金が膨らんでいた。
彼の月給は1500ドルであることを考えると返済不可能な金額だ。当然、ノミ屋からの催促が激しくなる。なにかと彼を贔屓するヒップス(ポール・ソルヴィノ)も、流石にマズいと告げられる。それでも賭けを止められない彼は・・・
ギャンブル依存症の教授が辿る分かり切った運命を描くドラマ。
勝つか負けるかでアドレナリンが放出され、それによりトランス状態になる。その興奮が忘れられず深みにはまっていく。
大人であれば、それがどんな結果を導いていくは分かることだろう。しかし、そうとは思いつつ止められないから依存症であり、やがて中毒患者となっていくのだ。
本作は、それを真正面から描いていく。主人公は大学講師であり、社会的スタンスは上の部類の人間。流石に借金がかさみ、このままで良からぬ人間らから制裁を受けることになるとは知っている。恋人はいるが、何ら個人資産はない。ゆえに別な高利貸しを当てにするが、そこでも断られる。
そうなると残りの綱は医師の母親と一代で財を成した大富豪の祖父しかいない。ところが、そう簡単に頼めるはずもなくジレンマに陥る主人公。
それでも何とか金が工面できると、やはり興奮が忘れられずが優先してしまう。博打の怖いところは勝ったり負けたりするから始末に悪いと提示してくる。
日本でも映画や漫画で散々描かれてきた内容。目新しい点はないが、着実に真綿で首を絞めつけてくるようなカレル・ライス演出は実にヤらしく見事。
チェコスロヴァキア出身でイギリスに渡り、本来は文学者たちに言われた「怒れる若者」世代の監督として名を馳せた。これは同時期フランスで起こった「ヌーヴェル・ヴァーグ」旋風と同じで既成の社会概念や映画手法を脱却するべく起きた若者たちによる映画活動。
その旗手のひとり。なので非常に陰湿で、決して抜けだせない湿地帯の中に静かに、だが確実に沈んでいく印象を与えてくる。制作年度的には舞台がNYでもあり、「アメリカン・ニュー・シネマ」的な内容と作劇かと思っていると、想像以上に別な意味で息の詰まる内容でもある。空虚ゆえの自分探しではなく、自らが空虚に突き進んでいく。つまり、自分を見失うというか喪失していく。しかも他者をも巻き込んでいくから、始末に悪い。
勝ち負けが苦手な自分はギャンブルを一切しないので、初見時から『なら、止めれば良いじゃんか』と思った。
なので肩入れできなかった作品。ここで取り上げるので再見したが、やはり何とも嫌な映画である印象は変わらなかった。
ただし、ライス演出は地味ながら飽きさせることはないので興味深く観ていけた。
もし、依存症の人間が本作を見たらギャンブル回避啓蒙映画となりうるかとも思ったが、恐らくその手の人間はあまりにも自分に重なり途中棄権するだろうとも感じる。
それほど「博打」における人間の脆弱性を痛烈に印象付けてくる作品。すべてが重く、それこそが人間の弱さに起因するものとも教えてくれる。