スタッフ
監督:ジョン・ギラーミン
製作:クリスチャン・フェリー
脚本:スタンリー・マン
撮影:マルセル・グリニヨン
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キャスト
アグネス / パトリシア・ゴッチ
ラルポー / メルヴィン・ダグラス
ジョセフ / ディーン・ストックウェル
カレン / グンエル・リンドブロム
ジュヌヴィエーヴ / シルヴィア・ケイ
アルマン / ピーター・サリス
アルバート / クリストファー・サンドフォード
バーの主人 / ピエール・ガルディ
結婚式の客 / レネ・アランダ
日本公開: 1966年
製作国: アメリカ、フランス IC作品
配給: 20世紀フォックス
あらすじとコメント
前回の「シベールの日曜日」(1962)で印象的な少女を演じたパトリシア・ゴッチ。その彼女が、更に孤独さを際立たせた少女役を演じる極北の人間ドラマを扱う。
フランス、ブリタニー
断崖の海岸線が続く村外れの一軒家に長女を嫁がせた元検事ラルポー(メルヴィン・ダグラス)と次女アグネス(パトリシア・ゴッチ)、女中のカレン(グンエル・リンドブロム)がひっそりと暮らしていた。ラルボーは謹厳実直さを持つ男だが、どこか取っ付きにくい印象でもある。女中は夜な夜な恋人を窓から呼び入れるようなタイプ。
問題はアグネスだ。彼女は母親を早くに亡くし情緒不安定から12歳で小学校を退学になり、10代後半に差し掛かる現在でも、まるで成長を拒否するかのような立振る舞いを続け父親を悩ませていた。どうせ自分など近くの精神病院に送られる運命だと卑屈さを増長させている始末。
ある時、父親の礼服を盗みだして「かかし」にしようとする。それを見つけて困惑する父だが許可した。すると今度はアグネスは「あなたハンサムね」とまるで人間のような扱いを始める。そんな折、近くで護送車が事故を起こし囚人が逃げ出す事件がアグネス一家の面前で起きる。
その夜、独り逃げ延びたジョセフ(ディーン・ストックウェル)がかかしの服を着用し・・・
いびつで脆弱な人間たちの間で起きる波風を描く極北のドラマ。
淋しい村外れでひっそりと住む父娘と若い家政婦。誰もどこか嫌な雰囲気を醸している。
映画は冒頭、長女の結婚式から始まるが、それが都会であることからヒロインが錯乱状態に陥るという緊張感を伴う出だし。
どうやら喧騒に慣れていなく、田舎に戻り頭上を飛び回るかもめの群れを見てホッとする。やはり、どこか孤独でそれが観る側に恐怖感を喚起させてくる。
ヒロインは小学校も卒業していないまま思春期を迎えている状況。階上の女中部屋では夜な夜な男女の営みの音が聞こえる。そして、今度は犯罪者である青年が紛れ込んでくると何故か家族総出で助ける展開となる。
そんな無茶苦茶な設定と展開など、間の抜けたコメディかと推察するかもしれないが、さにあらず。何せ、それがあり得ないと思わせない演出だから、見入ってしまったのだ。それは三者三様の『心の闇』が先に提示されているからである。
ヒロインに至っては脱獄囚を見つめ「自分が人間にしてあげた」と目を輝かせて言ったりするから恐怖感が倍増する。
女中も若い体を持て余していると何が起きるのか。もし、そうなったらヒロインはどのような変化が起きるのかとサスペンスも漂ってくる。
全体的に極北さに覆われ、決して解き放たれない人間の業というか、精神の攪拌とも呼べる不完全な安定性が際立ってくる。
何せ若い新参者は犯罪者である。誰がどう考えても楽しい展開は予想できまい。
果たしてその通りに進行はしていく。先読みも可能かもしれぬが、そこまで行くかと胸が痛くなった。
何よりもイギリス出身のジョン・ギラーミン監督の静かだが異彩を放つ演出設計は評価に値する。白黒画面だからこその恐怖感を喚起させる画面構成や広い自然を多用しながらも閉塞感が先行し、息が詰まって来るカメラ・ワークも絶妙。
決して美人とは言えないパトリシア・ゴッチの処女性と体が音を立てて急成長するかのような「いびつさ」が背筋を凍らせてくる。
一筋縄ではいかない人間ドラマの佳作である。