差別はいけない。
では、区別はどうなのか。更には「分別」はどう。調べてみたら、差別は「扱い」を変えることで、区別は、単純に「違い」を指すのだと。
ということは自分が他の人と別な扱いを受ける場合は、やはり「差別」にあたるのだろう。その対応なりに大人として必要なのは「分別」で、「ぶんべつ」でなく、「ふんべつ」の読み方のほうだろう。だって、ぶんべつならゴミ箱行きだ。
40年近く通う夫婦が営むカウンターだけの「とんかつ屋」がある。元々は神保町にある学生向けの安くて盛りの良い店が本店で、他に「天ぷら」と「天丼」専門の店もあった、その「暖簾分け」の店。
典型的な寡黙な職人肌の親父さんと、やたら愛想の良い女将さんが切り盛りし、時分どき以降は行列が絶えない店でもある。3月に急逝した元地元の後輩も上京するたびにそこに通って、やっぱり最高ですねと言ってきた。
ご夫婦が高齢になり営業時間も短縮され、一応11時から15時営業で、更に病院通いがあると日曜定休の他に水曜と土曜もたまに休むようになった。当然、それでも通う。
店側は少しでも客のことを考えて開店を10時半にした。しかしあくまでも看板には11時開店。早寝早起きの自分としては、当然、開店時間を狙い、週に一回は通い続けている。
そこで「差別」の話に戻る。一応の有名店であり、最近はインバウンド客もやってくるようになり、翻訳アプリやらで数少ないメニューを決める。しかも流行りの「ガラガラ系」の引き摺って歩くトランクで平気で入ってくる。床は黒丸石で当然大きな音を立てる。平素は無口な親父さんが、「うるさい、外に置け」と日本語で言うし、他の時は「日本語がわかんないんじゃ来るなよ」と自分にだけ聞こえる声で呟いたりする。
更に、常連かどうかで付け合わせのキャベツの盛りが当然のように増減するし、平然とサービスで小振りながらエビフライや串カツ、アジフライなどが付く。一見客はその差別振りに驚くばかりだが、親父さんは平然としている。
一年ぐらい前の盛夏、開店少し前に着いたら関西系の三人組が先に並んでいた。上司と部下二人で、矢鱈と気を遣い、入口を開けて「何時からや」と少しでも早く入りたいオーラを出した。面白いのはそういう時に親父さんは、言葉がわからない態で完全無視をする。だから、大好きなのである。
そしてすぐ後ろに並んでいた自分を認めると先に入れと手で合図。良いのかなと思いながら定席に坐ろうとすると、「オイ、暖簾出してくれ」と言った。一瞬ポカンとしたが、「出し方わかるよな」と平然と続けた。どうやら持ち帰り注文が入っていて、既に何人前かのとんかつを揚げていた模様。なので手が離せないので頼むということだろう。
それが初手で、以後バスの運行時間の関係で開店少し前に着き並ぶと、中からアゴで合図されるようになった。つまりは暖簾出し係に任命されたわけだ。丁稚でもないが妙に嬉しいし、他の一見客は驚くばかり。そりゃそうだろう、店員でもないコワモテのオジサンがごく普通に暖簾を出すんだぜ。
以降、平然と盛りが変わりサービスのフライが妙に多くなった。極めつけはシジミの味噌汁が付くのだが、黙ってお代わりがでるようになった。弟子入りした相撲取りでもないのに、益々増量されると流石にこの歳だとキツい。
しかし、それが昭和流の寡黙な親父さんの好意なのだろう。ある意味、信頼関係とも感じる。
だが、毎回そうなると流石に夕食に響くようになったし、週一が若干減少傾向にもなった。それが差別と受け取る人もいるだろうし、初回でも自分も同じようにサービスされないとネットに悪口を書き込む。尤も、親父さんはネットなど見ないし関係ないという風情。こっちだって、そんな差別なら大歓迎だ。
空梅雨傾向の先週月曜日、一週間空けて顔を出したら、親父さんが小さな声で今週いっぱいでやめるんだ、と言った。晴天の癖霊であり、最後の、本当に最後の「とんかつ屋」なのに。先月はお気に入りで、やはり長く通った「カツカレー」の店が閉店したばかり。
重いだの言っている場合じゃないぞ。約40年通った店。最後の週は何度か通おうと決めたが、最終日だけは外そうと思った。何故なら絶対に号泣するから。
最後の週は計三度通ったが、開店待ちの行列は起きなかった。常連らもネットに書き込んだりする衆はいないのか、通常通りいつもの開店時間帯の常連客のみ。閉店と聞くとたかるハエのような自称とんかつ大好き人間が来られないのは嬉しくてしょうがなかった。こんなだから、自分だって差別的だし、分別など持ち合わせていない輩系さ。
そして、閉店一日前。常連以外には公にせず、張り紙も一切なく、ただ常連たちが別れを惜しむように黙々と食べていた。本店から数えると50年以上通った店。完全に人生の手持ちの駒から「とんかつ屋」が消えた瞬間。
これからは、これならマシかという味を探して、一からネットに頼らずに店を探すか、いっそ、江戸っ子らしく潔くあきらめるのか。何せ、個人の価値観としては星がいくつ付こうが、とんかつ定食で4000円も払いたくない。
「セコい」と言われようが「貧乏人」と呼ばれようが関係ない。自分にとって大事なのは『心意気』である。しかも「阿吽の呼吸」での。ああのこうのと能書き付けて店客双方から大上段に言われるのは『野暮』というもの。双方に自信がない表れだとイメージしてしまう。
完全に大事な人生がひとつ終わった水無月。哀しすぎると涙も出ないのかよ。