スタッフ
監督:ジャン・リュック・ゴダール
製作:ジョルジュ・ドゥ・ボールガール、カルロ・ポンティ
脚本:ジャン・リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
キャスト
カミーユ / ブリジット・バルドー
ジャヴァル / ミシェル・ピコリ
プロコシュ / ジャック・パランス
フランチェスカ / ジョルジア・モール
彼自身 / フリッツ・ラング
カメラマン / ラウール・クタール
助監督 / ジャン・リュック・ゴダール
サイレーン / リンダ・ベラス
日本公開: 1964年
製作国: フランス、イタリア コシノール作品
配給: ヘラルド
あらすじとコメント
ブリジット・バルドー主演作。監督はジャン・リュック・ゴダールで奇才の呼称が頷ける、ある種複雑で重いドラマ。
イタリア、ローマ
女優カミール(ブリジット・バルドー)と夫で脚本家のシャヴァル(ミシェル・ピコリ)。二人はベッドで無意味な愛の言葉をささやき合った。信頼と安寧がなせる技のようだ。
夫のシャヴァルは午後チネチッタ撮影所でアメリカから来ているプロデューサーのプロコシュ(ジャック・パランス)との打ち合わせに出向くので、後で撮影所まで来るかいと彼女を誘った。どっち付かずの返答をするカミーユ。
撮影所ではプロコシュから監督フリッツ・ラング(彼自身)の新作「オッデセウス」へのシナリオ改定依頼された。監督らと一緒に今までのラッシュを見るシャヴァル。些か面倒な方向へ向かいそうな予兆を感じ取った。
そして、夕方カミールが来るとやけにプロコシュが親し気に接してきて・・・
人間の感情の機微を突き放すように描くドラマ。
冒頭はベッドでうつ伏せ姿のバルドーのオールヌードから始まり、ベッドにいる夫とのエロティックさが漂いながら妙に無味乾燥的な台詞の応酬が続く。
そこからしてセックス・シンボルとして有名だったバルドーの煽情的な裸体以上に、本作はかなり厄介だぞと直感させる。
そしてアメリカ人プロデューサーと会ってから、妻の方に突如、夫に対する『飽き』と『軽蔑』が芽生える。
そこから各人はいたって普通な言動だが、観ているこちらには違う感情を喚起させる。そのあたりがゴダール監督という存在がかなり厄介な人物だと肌感覚を刺激してくる。それが、しかもかなり『痛い』感覚として。
セックスシンボルとしてバルドーと比較されるハリウッドのマリリン・モンローが嫉妬したとも言われる作品。ハリウッドではあくまで『セクシー女優』であり、インテリ系の監督作品に起用されないというジレンマだと言われてきた。
確かにこの厄介なゴダールの作品は孤高さを伴う嗜好性の評論家たちが絶賛し、読み解くことこそが評論家として矜持と確信されていた。
つまり、どれだけバルドーのセクシーさを映しだしても、単純な観客には知性を司る脳内攪拌を起こさせるような意図を持っている作品だと強く感じた。
人間の「業」と瞬間に変化する感情の起伏が一過性なのか、本性に関わる事象なのかと常に自問させられる。
そのためにフランス人の主人公夫婦に当てるのは悪役専門だったハリウッドのジャック・パランス、そして、ナチスとのを関係性を噂されたドイツ人のフリッツ・ラング監督が本人役を演じている。そんな全員が絡む映画本編がギリシャの叙事詩の最高傑作とも称される「オデッセイア」という混合系。
否や「異種格闘系」とも呼べる内容をイタリアの風光明媚な場所で描いていく。トータビリティとしていびつさはないが、かなり観る人間を選ぶ作品である。
つまり、バルドーのセクシーさを一番に期待していった観客に突き付けられるのは最後まで放棄せずに見続けることが出来る人間かという挑戦とも感じる。
映画の一ジャンルとして確立された監督であるし、熱狂的な知的スノッブを自称する「追っかけ」も存在すると確信はさせられる。間違いなく立派な表現者であるし、卓越した才能の持ち主であることには間違いない。
ただし、自分としては相容れない監督の一人でもあるのだが。
