スタッフ
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
製作:ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ、S・C・ダミーコ 他
撮影:カルロ・モンテュオーリ
音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
キャスト
リッチ / ランベルト・マッジョラーニ
マリア / リアネーラ・カレル
ブルーノ / エンツォ・スタイオーラ
バイオッコ / ジーノ・サルタメレンダ
老乞食 / ジュリオ・キアーリ
慈善家婦人 / エレーナ・アルティエッリ
泥棒 / ヴィットリオ・アントヌッチ
慈善団体事務長 / ミケーレ・サカラ
アマチュア俳優 / ファウスト・ゲルツォーニ
日本公開: 1950年
製作国: イタリア P.D.S.作品
配給: イタリフィルム、松竹
あらすじとコメント
貧困がもたらす人間の脆弱性と狂気。前回の「ポケットの中の握り拳」(1965)のテーマであった。今回も貧乏で底流の人間が描かれる。これぞネオ・リアリズモ映画の代表的逸品と称される秀作を扱う。
イタリア、ローマ
敗戦後二年以上経つが、現在でも失業中のリッチ(ランベルト・マッジョラーニ)。家族は妻のマリア(リアネーラ・カレル)と六歳の息子ブルーノ(エンツォ・スタイオーラ)に生まればかりの赤子の四人暮らしである。
当然、生活は厳しく連日職安前に並び、斡旋を待つ日々。ある日、やっと仕事の口が掛かった。街角での映画ポスター貼りである。二年振りの仕事とあって喜ぶリッチ。
しかし、それには自転車が必須であった。以前は所持していたが、現在は生活苦のために質入れしていたのだ。途端に途方に暮れるリッチだったが妻が家中のシーツを質に持っていき、替わりに自転車を引き出したくれた。
これで生活が幾分かラクになると出勤し、仕事を始めた矢先・・・
貧乏庶民の絶望的な不運の連鎖を描くネオ・リアリズモの秀作。
敗戦国イタリア。戦後二年経つが庶民の生活は向上しない。
そんな中で工面した自転車が仕事初日に泥棒にあってしまう。主人公はどこまでも追い続けるが、結局逃げられたことから負の連鎖が始まる。
その前に描かれるのは、小さな息子はガソリン・スタンドの補助で生計を助け、主人公は息子に働かせているばかりで自分に仕事がないことに後ろめたさを持っている。
そんな亭主を見守りつつ、妻は先行きの不安から予言師の元を訪れる。そして予言通りに仕事が来たと喜ぶが、そんなことに金を払ったのかと主人公は訝しがる。この辺りもどこか先行きの不気味さを予告させる。
主人公は盗難直後警察に行き助けを求めるが、鍵も付けずに放置した所為もあると取りあってくれない。あくまで自己責任の欠如だと。
続いてゴミ収集員の仲間に相談し泥棒市に出品されるかもと一緒に探すが、解体されて売られている可能性もあるので無理。
やっと盗んだ犯人を見つけるが、当然上手く事は運ばないという絶望的進行。
予言師イコール「神」ではないが、それでも不吉さを増幅させ、今度は盗人関係者と思しき老乞食を追って炊き出し中の教会まで行き、罵倒し顰蹙を買う。
どうにも主人公の単純直情型の性格が災いしていると結びつけてくる。つまりどこまでも不運の連続で一市民が戦争を生き延び、苦しいながらもやっと生きて行っているという状況に、不運と呼ぶには絶望が先走る展開は観ていてつらい。
しかも素直だが学習能力のない人間は、いつまでも底流から這い上がれず、嘆くか人生を投げるかしかないのかもしれぬと。
更に覆い被せるように希望の光が何ら見えてこないという何とも嫌な展開が続く。恐らく現実の人生はそんなことの連続であり、貧乏人は些かも希望や夢を見てはいけないという展開で、こちらの気持ちの持って行き場がないまま進行していく。
そこにネオ・リアリズモの真骨頂があるともいえる。だからこそ、好き嫌いが別れることが多い。
別な視点から言えば、お涙頂戴映画には「動物と子ども」が必須と言われるが、本作では六歳の長男の存在が涙腺を刺激してくるのも間違いない。
自分も映画の子供と同じぐらいの歳のときにTV放映されること知った父が、これは観ろと言われ一緒に鑑賞したのが忘れられない思い出となっている。
終了後に一度も涙を見たことがなかった父が泣いていたのだ。後にも先にも父の涙はその一回なので強烈に覚えている。
「これは、俺だ」。同じような経験を戦後に味わったと。
同じ敗戦国。東京大空襲を奇蹟的に生き延び、戦後の混乱を生き抜いた父。口数は少なかったが、どれほどの苦労を得て来たのか。
自分も本作を再見するたびにその姿が甦り、特別な印象を放つ作品として位置付けている。
今観てもこれほど人間を絶望的に突き放す冷徹さを漂わす作品はそうはない。
それでも間違いなく秀作である。
