甘い生活 – LA DOLCE VITA(1959年)

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スタッフ
監督:フェデリコ・フェリーニ
製作:ジュゼッペ・アーマト、A・リッツォーリ
脚本:F・フェリーニ、E・フライアーノ、他
撮影:オテッロ・マルテッリ
音楽:ニーノ・ロータ

キャスト
ルビー二 / マルチェロ・マストロヤンニ
シルヴィア / アニタ・エクバーグ
マッダレーナ / アヌーク・エーメ
エンマ / イヴォンヌ・フルノー
ファニー / マガリ・ノエル
スタイナー / アラン・キュニー
ルビーニ氏 / アンニバーレ・ニンキ
リッカルド / リッカルド・ガローネ
パパラッツォ / ウオルタ−・サンテッソ

日本公開: 1960年
製作国: イタリア チネリッツ作品
配給: イタリフィルム


あらすじとコメント

イタリアにある永遠の都ローマ。今回は様々な角度から真の姿を描破した傑作にする。監督のフェリーニに脱帽しかない見事なる人間ドラマ。

イタリア、ローマ

地方から作家を夢見てローマに来たルビーニ(マルチェロ・マストロヤンニ)だったが、夢叶わずに今やゴシップ記者になっていた。

しかも憧れた都は退廃きわまる場所になっている。ゆえに話題には事欠かないし、いつの間にか仲間内でも幅を利かすまでになっていた。

ある晩、大富豪の娘マッダレーナ(アヌーク・エーメ)と知り合い飲んだ挙句、商売女の自室まで行き、売笑婦を放り出して私生活用のベッドで朝を迎えた。そんな行為も二人にとっては只の成り行き。

彼女と別れたルビーニは郊外の家に戻ると同棲中のエンマ(イヴォンヌ・フルロー)が服毒し苦しんでいた・・・

人間の脆弱さと不感さを見事に描く傑作。

憧れの都に夢と大志を抱いて上京してきた主人公。そこには同じように地方出身者の負け組たち有象無象が自由勝手に生きている。

一方で上流社会なりのスノッブやセレブも贅沢と浪費の鷹揚さを垂れ流し、それぞれが身勝手ながら大人とばかりにバランスを繕いつつ生きている。

パパラッチに付き纏われる上流側は優雅にかわそうとするし、追う側は知性のなさ丸出しで欲望のままという態。

そこに男女という生物学上の差異が混じる。やはり階層や置かれている立場によって個性はあるものの、通して感じさせられるのは女の聡明さと男の曖昧性。そして男女問わず人間の脆弱性である。

登場人物の中で一番人間性が確立され、主人公が最も心寄せる人物の終盤での態度など、人間というものがどれほど小さな生き物かと強烈に印象付けられ鳥肌が立つ。

人間たち個々の普遍性と変貌。マリリン・モンローを思わせる女優の「トレビの泉」での痴態や、絶賛開発中の郊外の高層アパート群と近隣の貧民窟との差異。

その上空をヘリコプターで吊るされ移動する巨大なマリア像。女神降臨よりも処刑的見せしめともイメージさせる。

トータルとしてどの階級であろうとも、地方出身者が憧れ、自分もそこに見合う人間になりたがるのは「哀れ」と描く。

世界中の大都市に憧れ上京してくる人間たちには強烈なアンチテーゼでもある。

かといって上層階級だってスノッブさより下品さが勝るという描き方で、所詮人間は「同じ穴の狢」。

全体を通して一貫し漂う虚無感。人間は誰もが一瞬冷静になり、自己を顧みる。

その時に何をなすのか。もしくはすぐに戻ってしまうのか。

ある意味、開発が進む郊外までを含めてこれほど『永遠の都ローマ』を上手く活用し、街の歴史同様に蠢く人間が大勢いて、それでも不変さを放ち続ける『場所』を描いた作品は他に類を見ない。

つまり、ニュー・ヨークやロンドン、パリとも違う、西暦以前より脈々と続く「歴史」の格の違いだろう。

事実、歴史上数多くの血が流れ、それでいて人を惹きつける魅力を放ち続けるのだから。

言い換えれば「郷に入っては郷に従え」と嫌でもなっていく人間たち。この諺は外国では『ローマにおいてはローマ人のように振る舞え』なのだから。

つらさと痛さを全編を通して感じさせる、まさしく映画史上に輝く傑作である。

とはいっても観る側もそれなりの覚悟を要求されるかもしれない。

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