スタッフ
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
製作:フランコ・クリスタルディ
脚本:L・ヴィスコンティ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ
撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽:ニーノ・ロータ
キャスト
マリオ / マルチェロ・マストロヤンニ
ナタリア / マリア・シェル
間借人 / ジャン・マレー
寮母 / マルチェッラ・ロヴェーナ
メイド / マリア・ザノーリ
街娼 / クララ・カラマーイ
レジ係 / エレーナ・ファンチェラ
ダンサー / ダーク・サンダース
若い男 / コラッド・パーニ
日本公開: 1958年
製作国: イタリア CI、AS作品
配給: イタリフィルム、NCC
あらすじとコメント
フェリーニ作品が続いた。なので、次はやはりイタリア映画の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督にシフトしようと思う。文豪ドストエフスキーの短編作の映画化。
イタリア、北部の小さな港町
上司家族と休日を過ごしたたマリオ(マルチェロ・マストロヤンニ)がバスで戻ってきた。気さくで感じの良い上司家族であるが、どうにもつまらなかった模様だ。
皆と別れるとどこかホッとした顔になる。しかし彼は転勤してきたばかりで友人もいなければ街のことも何も知らない。すぐに帰宅する気になれず、酒場に寄ろうとするも眼前で電気が消えた。何故か孤独が身に染みる。
彷徨うように街を歩くと、小さな運河に架かる橋の上で泣いている若いナタリア(マリア・シェル)を認めて・・・
閉塞感と寂寥感に満ちた男女の感情を描くドラマ。
転勤したてで何事にも不慣れな男。夜、小さな橋の上で独り泣いているヒロインを認めて声をかける。
どこか寂し気で且つ謎めいているし、独り身の男としては当然だろうか。
しつこく付き纏うので適当にかわすが、妙な孤独感が漂い、且つ素直さが勝るようでしつこさに負けたのか、明日の同じ時間に同じ場所でと告げる。
主人公は有頂天になるが、そうは簡単に行かず、実はヒロインには心に決めた男性がいると知ることとなる。
それでも今度は自分に乗換えさせようと画策していく展開。
傍から見れば「夢見る乙女」と「身勝手自己中心男」の話ではある。
原作はロシアのドストエフスキーの短編。双方が孤独を抱え、特にヒロインは心に秘め、思いが増大している相手がいる。
この男が何者であるのかは語られない。謎めいて思わせ振り的な進行。
そして何とも恐ろしい存在が登場する。ヒロインの思慕の心情を知っている風情の盲目の祖母である。
猜疑心から彼女を決して離そうとしない。確かにヒロインなしでは生きていくのはかなり困難であろうが、それにしてもその縛り方はゾッとする。
特に彼女らは東欧出身のスラブ系という流れで、イタリア人ではないことも暗い影を落としている。
結果、二人の身勝手さがすれ違いと誤解を生み、ストレスばかりが溜まる展開。
興味深いのは本作に於けるビスコンティ演出。特に冒頭、バスから降りて上司家族を別れた後の主人公の孤独感を際立たせるショットの数々。
些かやり過ぎ感は否めないが、小さな運河を含みフルセットと思しき中で、石畳の街並みと妙な極北感と閉塞感を漂わせている。そのためのモノクロ作品という印象も受ける。
監督の他にも女流脚本家スーゾ・チェッキ・ダミーコ、音楽はフェリーニ作品でおなじみのニーノ・ロータという布陣であることも興味深い。結果、それらが上手く絡まり、複雑だが優しさに包まれる印象になる。
キャスト側で刮目するべきはヒロイン役のマリア・シェルと彼女と祖母の暮らす家に住む謎の間借人ジャン・マレーの存在感。
シェルとマレーはフランス映画の印象が強い。特にマレーは男色家として有名であり、ヴィスコンティも然りで、妙な色気を醸すような演技をさせていると感じる。
全体的に映画というよりも舞台劇の態を強く感じさせる演出。
結果として、こじんまりとした印象の作品ではあるが、極北感の中に温もりを感じさせる。
