スタッフ
監督:ウィリアム・ワイラー
製作:ウィリアム・ワイラー、グレゴリー・ペック
脚本:ジェームス・R・ウエッブ、サイ・バートレット 他
撮影:フランツ・プラナー
音楽:ジェローム・モロス
キャスト
マッケイ / グレゴリー・ペック
ジュリー / ジーン・シモンズ
パトリシア / キャロル・ベイカー
リーチ / チャールトン・ヘストン
テリル少佐 / チャールス・ピックフォード
ヘネシー / バール・アイヴス
バック / チャック・コナーズ
ラモン / アルフォンゾ・ベドーヤ
デュード / バフ・ブレイディ
日本公開: 1958年
製作国: アメリカ アンソニー・プロ作品
配給: ユナイト
あらすじとコメント
前回同様、名匠ウィリアム・ワイラーで繋げる。正調西部劇の態を成しながら、ワイラーが手掛けると違う意味で深い感慨を受ける佳作。
アメリカ、テキサス手堅く牛の商売をしているテリル(チャールス・ピックフォード)の一人娘パット(キャロル・ベイカー)と結婚のために東部からマッケイ(グレゴリー・ペック)がやってきた。
あまりにも場違いな格好の上、優男で、たちまち地域の笑い者となる。しかし、マッケイはどこ吹く風。
牧童頭リーチ(チャールトン・ヘストン)からも挑発されるが敢えて受け流す。ところが、そんな行動が「男らしくない」と父親の印象を悪化させる。
そんな父親には長年の確執がある同業者のヘネシーがいて・・・
様々な格差の融合と決裂を描く大河ドラマ。
広大な土地が拡がるテキサス。住人たちはその広さを自慢し、男衆はそこでたくましく生きてこその存在証明だと確信し、何でも力付くでねじ伏せていくのが当り前の価値観。
そこに似合わない高級な服を着てやってくるJ『異邦人』の東部男。しかし、この東部男は元船長で、世界を旅してきた過去を持つ。
主人公からすると西部男たちは、何とも小さな「井の中の蛙」。自分は世界中の船乗りや港湾関係者と遣り合ってきている自負があり、その優越性ゆえに対峙せずというスタンスを取る。
ところが、それら一々の言動が気に入らない西部の人々。やがて許婚者までも侮蔑の目を向ける始末。
一方で、許婚者の親友で学校教師の女性が、一つのガキを握る。それは牛を扱う二大勢力双方が必要とする水源地の権利を有しているからだ。しかも独身。
決して頭の良くない連中からすれば悪だくみの対象になる存在。
そんな彼女は、主人公の知的で奥ゆかしい性格をいち早く見抜くから始末に悪い展開が待ち受ける。
広大な土地を背景に描かれるのは『際立つ対比』。「東部」と「西部」、個人的価値観による「合理性」と地域的仲間意識による画一性を伴う「感情優先」。
そこにもってきて、二大勢力の長たちの、力付くと命懸けで生き抜いてきた昔気質の「頑固さ」。
価値観は個人の意識改革でしか変わらない。それができない者たちは力がモノをいう。
そんな人間たちの意識改革を助長する主人公のスタンス。
ある意味、東部というか、知的優位性がある人間がアメリカを牛耳るのが正調と教示してくれる。
最初の方で、地元の実力者が「これほど広大な土地はない」と自慢すると、主人公は「海のほうが余程広い」と返すが、海を見たことがない現地の人間は狐につままれた顔をする。
そして、世界を渡り歩いた元船長から見ると西部の荒くれ男たちはスケールが小さいと小バカにして鼻で笑っている印象をも感じさせた。
ワイラー演出も「対比」を強く感じさせる画面で押してくる。
挑発から暴力へと進む場面など、互いの睨み合いから、画面が引き、大自然の中で、ポツンとした小さき存在を意識させてからの乱闘など、非常に解りやすい作劇。
観客にだけ主人公のスタンスを見せてくるので、大西部の人間は広大な土地の中で「蚊帳の外」だ。
それでも、ストーリィは最後は協調性を見出すのかと思いきや、知的階級が卑下対象者ら同志の「自滅」を促す結果にもなる。
しかも、そこで描かれるのは、あくまで「敗北」であって、有終の美やら、滅びの美学ではない。
当時、市井の人間誰もが好きな「大型西部劇」として集客しておき、優越的知的階級には従うのだと、さりげなく、だが、しっかりと刷り込ませてくる。
時代の趨勢によるアメリカ近代化の歴史ともとれるし、娯楽作として、しっかりと作ってあるので、2時間半という長尺さも感じさせない『力作』でもある。