反撥 – REPULSION(1964年)

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スタッフ
監督:ロマン・ポランスキー
製作:ジーン・グトウスキー
脚本:R・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ
撮影:ギルバート・テイラー
音楽:チコ・ハミルトン

キャスト
キャロル / カトリーヌ・ドヌーヴ
マイケル / イアン・ヘンドリー
コリン / ジョン・フレイザー
ランドロード / パトリック・ワイマーク
ヘレン / イヴォンヌ・フルノー
バルク / レニー・ハウストン
デニス婦人 / ヴァレリー・テイラー
ブリジット / ヘレン・フレイザー
レジー / ヒュー・ファッチャー

日本公開: 1965年
製作国: イギリス コンプトン・プロ作品作品
配給: 東和


あらすじとコメント

今回もロマン・ポランスキー作品。「ローズマリーの赤ちゃん」(1968)へと繋がるサイコ・スリラー作で、彼の内面的不安定さが滲みでた作品。

イギリス、ロンドンベルギーからの移民でエステ店に勤めるキャロル(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、姉のヘレン(イヴォンヌ・フルロー)とアパートで二人暮らしをしていた。

ところが、姉が不倫相手の男を部屋へ招き入れるようになり、心中穏やかでなくなったキャロルは仕事も手に付かず情緒不安定になっていく。それでも、姉は彼女のことなどお構いなしに不倫にのめり込み、更にキャロルを追い詰めて行った。

そんな事とは露知らず美人のキャロルを口説きにかかる青年コリン(ジョン・フレイザー)がでてきた。二枚目で中々の好青年で、店の同僚は恋人だと勘違いし、揶揄するので、益々、彼女を追い詰めて行った。それでも周囲の人間らは、彼女の心情など一切理解しようとせずに、完全に鬱状態になっていく。

そんな折、姉は不倫相手とイタリア旅行に行くと言いだして、キャロルをたったひとりでアパートに置き去りにして・・・

男性恐怖症から心を病んでいく美人のおぞましい物語。

異性への興味はあるのに封印し、移民という環境に適応し、異国で生きてこうとする主人公。

ところが姉は即物的というか、逆に姉妹間での直載的な優越性と、移民先での将来に対する融合を考えたのか、不倫行為に走り、何ら合理的説明を果たさぬまま、絶対的優勢を誇示する妹に対し、これぞ移民先での正しい価値観として振る舞う。

結果、妹は病んでいく一方で、異性としての『男(あくまでもイギリス的優勢を伴う)』が、移民だろうと女性の本能はここにあり的行動を取ることにより軋轢が生じていく。

ポランスキー監督は、戦時下、自身がユダヤ人として虐げれてきた幼少時代を忘れずに、自由世界イギリスに来たことにより、彼なりの被差別的鬱憤を映画作品として昇華させようとしたと感じた。

かなり「いびつ」な深層心理を、映画表現者として照れ隠し的に具象化する。

しかも舞台がロンドンであり、ヒッチコック等を筆頭に多くのサスペンス・スリラー映画の佳作・秀作を輩出してきた場所。

そこにイギリス映画の影響を想起させつつ、監督自身の、ある意味、エゴイスティックで幼稚性を伴う作品を上辞した。

つまり、イギリス映画的手法を踏襲しつつ、オリジナリティを持って制作した作品。

本作でポランスキー監督の精神的未熟性と、ある意味での変態性が露呈していると感じた。

映画とは表現者の個性というか特性が前面にだされる表現方法であると思うし、それが、受け手の感性に委ねられるのを承知の上で、思い込みゆえの脆弱性を吐露しているとも受け取れた。

ひたすら三分の二の上映時間まで、ヒロインの精神的脆弱さで引っ張り、着地点はどこに向かうのかという受け手の感受性を刺激していく。

その中でも整合性を鑑み、直載的な表現で対峙しようとした未熟性を考慮した上で、後に監督自身が体験するおぞましい悲劇は、彼の中の「思わせぶり」と「過剰なる自己弁護」に起因する運命であるとも感じる。

映画大国に移行して初の監督作品であり、彼の幼少期の死をも覚悟し、激変したゆえの『いびつ性』を嗅ぎ取るには絶好の作品かもしれぬ。

余談雑談 2019年4月27日
平成最後の沖縄旅の続き。渡嘉敷島に一泊し、那覇に戻った。 久し振りに、那覇で二日もノープラン。再会する友人の都合を考慮し、どちらの日でも良いようにフリーにしておこうと思ったからだ。 友人からは、翌日夜でという連絡が来た。さて、どうするか。と