何やかやと大晦日。
先ず、世間的には海外からの観光客も戻り、地元観光地はこぼれるほどの人波になった。たまの地下鉄も時間帯に関係なく大混雑。
へそ曲がりとしてはコロナ初期の閑散期が既に懐かしい気分。この閉塞期間でどれほど混雑と見ず知らずの他人が嫌いになったのだろうかと少し苦笑。
ま、世間様などどうでもよろしい。個人的な思い出は如何に、だな。確かに行動制限が切れ年に3回も訪沖したし、馴染みの温泉にも浸かれた。
しかし、これが良いことのすべてかもしれぬ。それ以外は「人生は谷あれば谷あり」てな一年だった。特に夏以降はヘルニアになったり、菌が入り右脚下が象のように腫れて点滴入院。その所為で沖縄から緊急帰京。
わが心の飲食店がほぼ全滅に瀕し、気力から体力も減退と来たもんだ。しかも起因は自分自身だと思い当たる。去年、様々な「しがらみ」を自己責任として断ち切ろうと実家の神棚や祖父がしつらえた大きな仏壇を処分した。
祖父は、わざわざ九州まで行き中に入れる「神札」を求めてきたと聞いてはいた。本来は、同じ場所に返納すべきだろうが、流石に無理で、地元神社に簡単にお願いした。それが祟ったか。
他にも、それに限らず急激に過去のものを処分しまくった。性格上、徐々には苦手で思い当たれば片っ端からである。実家はややこしい親族関係もあり、何かとトラブルの連続だった記憶がある。何かをしようとすると誰かが反対的なこと。
そんな思い出が詰まった実家。流石に売却は出来ぬが、なるべく過去のものは払拭したいと思っていた。小さな物にも怨念なり恨みが宿っていそうで。長男の一人息子でもあるし、男系はいないから自分の責任で処分する、と決めたのが去年。
それを実行したからかな。だから俗に言う「バチが当たる」って奴か。見えない親族の霊でも祟っているのかね。
でも、なぜ「当たる」なんだろう。宝くじなど当たるために買うのに。
漢字では「罰」と書くらしい。ならば似たような字で「罪」を連想する。ロシアのドストエフスキーの小説のタイトルからの発想でもある。
でもって「罪」は『償う』んだよな。当たりもハズレもなく、償う。弁償するをイメージするし金品で支払うとか、刑務所に入って、てなイメージだ。ちょいと辞書に当たってみると「罰」は宗教的な意味合いで、「罪」は倫理や法律に抵触すること。
どちらにせよ、自分には合点がいく。迎合しない倫理観を持っているし、実家の神棚や仏壇撤去も単純に進めすぎたからバチも当たるかもな。
おっと、やっぱり「当たる」か。とはいっても今年は何の当たり年だったのかな。壁に突き当たるとか、当たるも八卦、当たらぬも八卦てな占いに頼ってみたとか。どれも違うな。
では、何故に。「食あたり」とか。否や、安酒場の余生だ、胃腸は鍛えられた。それよりは閉店ラッシュで落ち込み、新規開拓店には当たってないか。じゃ、来年は新規開拓に精を出すか。
そっか、賭ければ当たるかも。でも、賭けなければハズレない。どっちが得かと考えて、堂々巡りの一年だったってことか。
今年最後の発行です。一年間ご愛読ありがとうございました。読者の皆様に於かれましては、どうぞ心穏やかな年始をお迎えください。
来年も通常通りの発行を心掛けて参ります。引き続きのご愛顧を心よりお願い申し上げます。