乾燥した朝。それでも夜明けが徐々に早まっている。
透き通るが寒過ぎる明け始めの窓辺に立ち、さて、今日も何もすることがないなと珈琲を淹れる日常。
一応格好良いと自惚れるが、そういえば新年を迎えて『今年の目標』を考えなくなってどれほど経つだろうかと思った。
まあ、目標など達成のためにはストレスしか残らぬと中学時代には既に考えていたか。それに努力なんぞ報われないさ、と。
そうなると神頼みになる。祖父や父親も縁起を担いだり、様々な神社仏閣に祈念に行ったりしていた。それこそ商売の神様、家内安全、厄除けと元旦は家族総出で都内三ヶ所を車で廻った。
そして冬至の日に恵方向けの札を並んでまで買いに行っていた。しかも縁起を担ぐ父は大晦日から元旦を迎える零時丁度に恵方に札を貼り付けるが通例。
なのでお札貼りは父の死後も実行した。若い頃はカウントダウンと元気に起きていたが、寄る年波で一度寝て年明け5分前に起きて実行。そして二度寝をして自室窓から初日の出を見る。
だが、商売も仕事もやめたので札を貼る習慣も途切れた。否や、止めたというべきか。
ふと考える。「止める」と「途切れる」は違うよな。止めるのは自己決定だが、途切れるは休憩状態ととれるし、ならば再開も可能。
すると途切れるから『切れる』に興味が湧く。結婚式等では忌み嫌われる言葉だし、他に何かないかなと考える性分。
浮かんだのは「千切れる(ちぎれる)」。これは元には戻らんよな。へそ曲がりは「せんぎり」とも読めると。まあ、この場合は料理用語か。
ヒマにかまけて調べると、細切りよりも細く切ることと書いてある。ピッタリ千に切り分ける人はいないだろうが、「千人風呂」やら「千人斬り」とかも同義語かな。
続いて韻からイメージするのが「契る」。これは「禊(みそぎ)」とよく間違って読んでしまうが、あくまでも『韻』である。
その「契り」。演歌の曲名にもあったっけ。これは固く約束するとか、夫婦の約束を結ぶとかに使う言葉と記載されている。
でも待てよ、だな。昭和以前の使用法じゃねェの、と。だって肉体的関係もこの言葉を使っていたイメージがある。それは夫婦間の関係性しか許容されないってこと。男側から見た価値観で、女性は生涯結婚相手としか「契ってはいけない」的な。夫婦関係も肉体交渉も、現在ではそれほど強固なイメージはないけど。
ならば禊で行こうか。これは自分に当てはまる。10年振りの大寒波来襲とか言ってるし、まさか滝行に行ったりはしないがラクに出来る方法はないかなと、また珈琲なんぞ淹れてみる。
去年は良くなかったから厄落としの禊。おっと、この場合「落とす」は大丈夫だよな。ダメなら「拾う」とか「貰う」で。出来れば金と美女で。よし、健康と元気とか言わないのが自分ね。
おっと生臭いか。でも、この場合「臭い」は大丈夫ですよね。ダメなら朝風呂に入りますが。