スタッフ
監督:ゾルタン・コルダ
製作:アレキサンダー・コルダ
脚本:ローレンス・スターリングス
撮影:リー・ガームス、H・ハワード・グリーン
音楽:ミクロス・ローザ
キャスト
モーグリ / サブウ
バルディオ / ジョセフ・キャレイラ
床屋 / ジョン・クォーレン
学者 / フrンク・パグリア
メシュア / ローズマリー・デ・キャンプ
マハーラ / パトリシア・オルーク
ダーガ / ラルフ・バード
ラーオ / ジョン・メーサー
英婦人旅行者 / フェイス・ブルック
日本公開: 1951年
製作国: イギリス ロンドン・フィルム作品
配給: 東和
あらすじとコメント
前回の「描かれた人生」(1936)の監督アレキサンダー・コルダ。どちらかというと往年の映画ファンには、キャロル・リードの「第三の男」(1949)、デヴィッド・リーンの「超音ジェット機」(1952)など、製作者としてのイメージが強いかもしれない。なので、彼が製作、監督は弟のゾルタン・コルダというコンビで世に送りだした冒険映画にしてみた。
英領インド、カニワライギリスから来た婦人が、インド人の老人バルディオ(ジョセフ・キャレイア)を認めた。どうやら老人は、口述による物語伝承者のようであった。老人はタダでは語れんと金銭を要求。そして金を受け取った老人は過去にジャングルで起きたおぞましい話を語りだす。
若かりしき頃の彼はジャングルの外れの集落きっての猟師であった。小さな集落を更に拡充しようと村民たちが話し合いをしていた折、小さな赤児が行方不明になった。父親は、捜索中に伝説の虎に襲われ死亡し、妻のマシュア(ローズマリー・デ・キャンプ)は、一挙に夫と子供を失ってしまう。
その数年後、ジャングルから見知らぬひとりの少年モーグリ(サブウ)が集落に迷い込んできた。人間だが、一言も話せずに、ただ遠吠えをするのみ。誰かが叫んだ。こいつは狼に育てられた半獣だ、と。
しかし、マシュアはその少年を見て・・・
動物と会話が出来る少年から見た人間社会のエゴを描く冒険譚。
狼に育てられた少年が、文明社会に参加し、言語を覚え、人間としての価値観を教えられていくが、人間特有の「驕り」や「欲望」に翻弄されていくという内容。
原作は、イギリスの作家キップリングが1894年に発表した短編小説。つまりは19世紀に出版された内容。
成程、この時代では、狼に育てられた子供という、どこかファンタジー色の強いというか、突拍子もない内容でも理解できるか。
しかも少年は、あらゆる動物と会話が出来るのだが、ジャングルでの一番の敵である「ワニ」と「虎」とだけは、会話が不可能。まあ、奴らからすれば、『食糧』なのだから意思疎通などしたくもないのか。その上、主人公は人間の言語も覚えるのだから、鬼に金棒である。
そして、当然、強欲な大人たちに翻弄されたり、淡い恋心が芽生えたり、更には巨大コブラが見張り番をする『失われた王国』で財宝を発見したりと盛り沢山の内容で進行する。
児童小説の内容にして、人間のエゴを教え、人喰い虎に決死の戦いを挑む勇者という血沸き肉踊る冒険譚をも描く。
いわゆるファミリー向け映画としてはもってこいの内容。そこで製作者アレキサンダー・コルダは考えた。
何とか冒険スペクタクルとして映画化できないだろうかと。恐らく他の製作者も思ったに違いない。
しかし、これはイギリスでは映像化が不可能だと確信したのだろうか。
何せ、冒頭では虎に襲われる主人公の父親や、迷い込んだ赤児が狼の群れの中で一緒に寝るシーンなど不可欠だが、そこまで調教された動物が存在しないし、様々な動物がまるで演技をしているような表情は、そうは簡単に撮影できない。
そしてコルダは、ハリウッドでの製作を決める。中々、商魂たくましいというか、きっちりと損得勘定を踏まえた上での結論であろうが。
ゆえに、本作は撮影や音楽など、当時、著名なアメリカ側スタッフを起用している。
そこに妙なアンサンブルが生まれ、イギリス映画でもなく、ハリウッド製とも異なる、不思議なティストの娯楽大作に仕上がった。
巨大コブラやワニなどは、いかにも作り物ではあるが、他の動物たちはホンモノであり、恐らく膨大なフィルムを廻し、納得できる表情のみを抽出し、挿入する。
時代性もあるが、それでも、当時としては軽快なリズムで進行する楽しい作劇の冒険譚として、一応の成功は収めている。
ただし、あくまでもファミリー映画としてであるが。
それでも、当時、映画という存在が、どれほど一般市民を愉しませたのかが解かり、内容と共に過ぎ去ったものへの郷愁を喚起させられた。