余談雑談 2014年11月22日

高倉健が亡くなった。連日、彼の人となりの報道等が多くのテレビ番組でなされ、追悼映画も放送されている。レンタル店でもコーナーが組まれ盛況とか。

間違いなく、日本映画界最後の、本当に最後の『銀幕のスター』男優であった。ある意味、日本映画の灯が消えたと感じる人も多いだろうか。残るは吉永小百合だけだと。

時代の流れで仕方ないのだが、昔は洋画が持て囃され、流石アメリカ映画はスケールが違うとか、邦画は子供だましと言われていた。確かに、今でもそんなに相違はない。

ただ、興行収入に関しては逆転した。圧倒的に、邦画とアニメである。それもテレビの所為だと言われているが、事実、その影響で映画界は衰退したが、今やそのテレビも凋落ぶりが激しい。

時代は益々、加速して移ろう。商品も、俳優も使い捨て。何も故障しなくっても、買い替えるし、タレントや芸人も入れ替える。

大事に育てる環境でもなく、頑張った人間が脚光を浴び、成功者と呼ばれる。でも、そうなれば、なったで、妬まれ、足を引っ張られる。清濁併せ飲むタイプは、正論サイドから攻撃を受け、悪い面ばかりが強調される。

カリスマ的才能がある人間が減り、グループ単位で売り出し、その中からご贔屓を見つけるスタイルも定着した。

何も芸能界に限らず、家電だって飲食店だって同じ。選択肢が増えたことを喜べと言うのか。ただ、残念なのは政治家まで、そうなったこと。

良い意味でも悪い意味でも、腹の据わった人間が減り、不器用さも売り物にはならぬ。

かつて褒章受賞時に、高倉健が、自分は前科者ばかり演じてきたのに、と言っていたが、確かに、彼は東映時代、何人も殺し、自分も何度も死んできた俳優だ。

独立後に、現在までのような渋い役柄を演じるようになったが、それでも前科者役は多かった。映画では毎回死んでも、別な映画で生き返る。しかし、現実はそうはいかない。しかも、職業によっては『清廉さ』が要求される。少しの脇の甘さも許されない。

ある意味、終焉を実感せざるをえない。あと一週間もすると師走。そして一ヶ月も経てば新年だ。

時は移ろい、年は改まる。しかし、人生はそうも行かない。

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