スタッフ
監督: ジョン・ヒューストン
製作: ジョン・ヒューストン
脚本: レイ・ブラッドベリー、ジョン・ヒューストン
撮影: オズワルド・モリス
音楽: フィリップ・スティントン
キャスト
エイハブ船長 / グレゴリー・ペック
イシュメール / リチャード・ベースハート
スターバック / レオ・ゲン
スタッブ / ハリー・アンドリュース
ブーマー船長 / ジェームス・ロバートソン・ジャスティス
クィーケッグ / フリードリッヒ・レデバー
フラスク / シーマス・ケリー
イライジャ / ローヤル・ダーノ
マップル神父 / オーソン・ウェルズ
日本公開: 1956年
製作国: アメリカ モーリーン・ピクチャー作品
配給: ワーナー
あらすじとコメント
グレゴリー・ペック主演作。今回も鬼気迫る役柄にして、監督は『憑り付かれた男』を撮らせたら、ピカイチだったジョン・ヒューストン。本作も、かなりの異色作である。
アメリカ、マサチューセッツ。1841年、ニュー・ベッドフォードの港町に一人の青年イシュメール(リチャード・ベイスハート)がやってきた。彼は、以前、商船勤務の経験があり、海での仕事に憧れていたのだ。
だが、その港は「捕鯨船」専門の地。世界中の荒くれ男たちが国籍、人種を問わず集い、七つの海をまたぎ、一年以上もクジラを追う仕事に付いていた。それでも、彼は海の仕事に憧れ、木賃宿で同宿になった全身刺青だらけの「銛打ち」名人クィーケッグと一緒にピークォッド号に乗船を決める。
しかし、直前、謎の男からその船に乗るのは止せと告げられる。何でも、その船の船長エイハブ(グレゴリー・ペック)は、片足がクジラの骨で作られた義足をし、顔は大きく傷付けられた跡がある神をも恐れぬ男にして、自分をそういう体にした「白い鯨」を殺すことに異様な執念を持っているからだと。
しかし、そんなことは意に介さず、彼らは船に乗り込んだ・・・
人間の驕りと命をも賭す執念を描く異様なる作品。
最大の哺乳類『鯨』。それを数隻の小舟に分乗した男たちが、命を賭け「銛」だけで捕える。
原始的な方法であるが、それこそが人間の男としての最大の挑戦のひとつであり、喜び。
そういった男たちが長期間、同じ帆船で世界を駆け巡り、目的量を達成するまで航海を続ける。そこにロマンを見出す者もいるだろう。
本作の語り部となる青年もそんなひとりだ。海という大自然と対峙し、また最大の獲物と対峙する。そこで必要なのはチーム・ワークであり、信仰心である。
中にはひねくれ者や荒くれ者もいる。しかし、乗組員の誰よりも『船長』がそうであったら、事態はどうなるか。
自分の肉体とプライドを木端微塵にした幻の「白鯨」を仕留めることにしか、興味がない。そのために圧倒的な迫力で全員を洗脳し、威圧していく。
待ち受けるのは『悲劇』だということは、想像に難くない。
しかし、どの程度の『悲劇』なのか。映画は、その悲劇に向かって一直線に進んでいく。
何とか事態を回避しようとするのは、信心深い副長だが、他の乗組員たちは読み書きも出来ない直情型の荒くれ者たち。語り部の青年は、初航海ゆえ、意見をだせる立場ではなく、傍観するしかない。
その語り部の青年同様、こちらも、閉塞され、異様な臭気がむせ返る帆船の中で、ジレンマに陥っていく。
誰もが「幻の巨獣」を男として仕留めたいと思ってはいるが、不可能だとも知っている。事実、劇中でも、白鯨に片腕をもぎ取られた他船の船長等が登場してきて、それがどれだけの存在であるかと強く印象付けられる。
要は『神』なのである。しかし、神は往々にして人間に試練を与える。それに対して、どのような行動を取るかによって、その人間の「格」が決まる。本作の主人公である船長は、対峙し、自分の方が絶対に勝利すると信じている。
まさに異様である。カリスマと言えば聞こえは良いが、個人的な執念を上から命令し、洗脳して他の人間たちをも悲劇へと導いていく。
まるで戦争はこのように始まるのだという教訓でもある。
そういった過程をヒューストンは、グイグイと引っ張るのではなく、どこかドライに、だが、的確な演出で綴っていく。
白鯨との対決シーン等の特撮は、現代のCGなどとは違い、さすがに時代性を感じさせ、いかにも作り物であると感じさせるが、それが、逆に『寓話としての神話』というエッジが立っているとも思った。
大根役者と呼ばれたペックの鬼気迫る演技やら、曲者オーソン・ウェルズの神父、レオ・ゲンやハリー・アンドリュース、ジェームス・ロバートソン・ジャスティスといったイギリス系の実力派俳優の演技は見応えがある。
しかし、本作の白眉は、やはり何といってもヒューストン監督のアイリッシュ魂である。