スタッフ
監督: モンテ・ヘルマン
製作: マイケル・S・ラーフリン
脚本: ウィル・コリー、ルドルフ・ワーリッツァー
撮影: ジャック・デイルソン
音楽: ビリー・ジェームス
キャスト
ドライヴァー / ジェームス・テイラー
G.T.O. / ウォーレン・オーツ
ガール / ローリー・バード
メカニック / デニス・ウィルソン
オクラホマのヒッチハイカー / ハリー・ディーン・スタントン
テキサスのヒッチハイカー / ビル・ケラー
テキサス州警官 / ドン・サミュエルス
老女 / キャサリン・スクェア
バイクの少年 / クレッグ・キャフィ
日本公開: 1972年
製作国: アメリカ M・S・ラーフリン・プロ作品
配給: CIC
あらすじとコメント
前回が、どこか「アメリカン・ニュー・シネマ」を意識したロード・ムーヴィーだった。今回は、ズバリ『王道』にしてみた。本来であれば「イージー・ライダー」(1969)だろうが、個人的には、こちらが好きという理由で選んだ。
アメリカ、ロサンジェルス。とある深夜、公道レースをしてる集団がいた。
その中に、まるでスクラップのような’55年型シボレーをフル・チューニングして戦いを挑む若者二人がいた。ドライヴァー(ジェームス・テイラー)とメカニック(デニス・ウィルソン)だ。しかし、寸でのところで負けてしまう。
翌朝、彼らの車に突然、ヒッチハイクなのか、少女(ローリー・バード)が乗り込んできた。何も尋かずに車をだす二人。彼らは、行く先々で、自分らの改造車でレースをすることだけに生きている風情だ。
そんな彼らの横を、最新式ポンティアックのGTOに乗る中年男(ウォーレン・オーツ)が、颯爽と追い抜いて行った・・・
王道でありながら異種、という、実に不思議なティストを持つアメリカン・ニュー・シネマの秀作。
広大な北米大陸。陸続きゆえに、車での移動は容易である。しかし、大概は目的がある「移動」だ。
本作で登場してくるメインの4人には、それがないという出だし。
旧車をフル改造して、レースの賭け金で旅を続ける若者二人。しかし、彼らは冷静で、そのレースに心底、賭けているという風情でもない。しかも決して、「自分探し」の旅でもなさそうである。
そこに同乗してくる少女。彼女もどこから来て、どこへ行きたいのかも語らない。ただ、黙って、ヒッチハイクをしているようにしか見えない。彼女は、もしかしたら「自分探し」をしているのかもしれない。
そして、カリフォルニアから南西部へと移動する中、今度は、次々とヒッチハイカーを乗せては、延々と話したがる中年男が絡んでくる。
しかもその中年男は、都度、自分を偽って語るのだ。しかし、そのどれが本当の彼なのかを知る術もない。
やがて、二台の車は何度か遭遇し、気まぐれから、お互いの車を賭けて、ワシントンD.C.まで競争することになり、オクラホマ、アーカンソーと州を越えて行く。
劇的なドラマなど何も起きない。ただ、彼らの姿を延々と点描していくだけ。
途中、中年男の方には偶然の同乗者が、登場するが、それらもほとんど点描されるだけ。だが、その短い登場時間のあいだに、服装や表情から、通りすがりの人間の人生を垣間見させる手腕には感じ入った。
セットなど組まず、全編をロケで撮っている。中には、一般人たちへの隠し撮りによって、真実の瞬間を切り取ってみせる場面もある。ある意味、大胆というか、偶然に賭ける即興演出である。
だが、前提には、ある程度組み立てられた脚本による進行が存在する。しかし、何かにインスパイアされると、即興的演出によるカメラ・ワークを優先する。その不思議なバランス感覚。
まるで、往年のイギリス映画が得意とした『セミ・ドキュメンタリー・タッチ』にも似た進行ではある。しかし、イギリスの作品には即興性は存在しない。
画面に描かれるのは広大な大陸である。そして、その中を走る二台の車と四人の男女。
『実験的映画』とも呼べなくもないが、その中で浮かび上がってくるのは絶望的な虚無感と孤独である。
若者三人は、どこか刹那的で、ただ生きているという風情。当時、映画が語りたがった「自分探し」をしない人間。つまり、ただそこに存在するだけという生き方。
一方で、中年男はもっと孤独だ。彼らはどこから来て、どこへ行きたいのか。
確かに、お互いの車を賭けてワシントンへゴールするという目的はある。しかし、当然、人生のように脇道なり寄り道が存在して行く。そして、その「道」の岐路となるのは、常に「少女」。
当初、彼女だけが、それぞれの車に乗るという展開を見せるが、やがて、全員が二台の車にバラバラに乗るという「呉越同舟」という展開をも見せて行く。
「個人主義」と「通過するだけ」の人生模様。それを際立たせるために、敢えて、登場人物全員に名前はない。
誰もが無名で、人生の一瞬に居合わせ、すれ違って行き、すぐにお互いの印象から消えて行くだけ。
そういった意味での「ロード・ムーヴィー」。自分探しなどしなくても、嫌でも「自分」がある。
何とも、言い難い虚無感が残る作品である。だが、当時とは全く違う虚無感なり、孤独が存在する現代。登場人物と同じ年齢層の人間たちは、今の時代を生きながら、本作を見たときにどのような印象を持つのだろうか。
個人的には、この作品をリアルタイムで、且つ、劇場で、しかも『フィルム』で見られたことは愉悦であるし、感謝したい。
そんな心持ちにさせられる作品。