スタッフ
監督: フランシス・フォード・コッポラ
製作: バード・パットン、ロナルド・コルビー
脚本: フランシス・フォード・コッポラ
撮影: ウィルマー・バトラー
音楽: ロナルド・スタイン
キャスト
ナタリー / シャーリー・ナイト
キルギャノン / ジェームス・カーン
ゴードン / ロバート・デュヴァル
ロザリー / マーヤ・ジメット
アルフレッド / トム・アルドリッジ
アーティー / アンドリュー・ダンカン
エレン / ローラ・クルーズ
ルー / アラン・マンソン
ラヴェンナ / ロバート・モーディカ
日本公開: 1970年
製作国: アメリカ ワーナー作品
配給: ワーナー
あらすじとコメント
今回もロード・ムーヴィーを扱ったアメリカン・ニュー・シネマ作品。巨匠フランシス・F・コッポラの初期の作品だが、個人的には彼の監督作品の中で一番好きな映画。
アメリカ、ニュー・ヨーク。ロングアイランドに住む人妻のナタリー(シャーリー・ナイト)は、ある朝、一緒に眠っていた夫に気付かれぬように、そっとベッドからでると朝食の準備をした。
そして、簡単な置手紙を残すとステーション・ワゴンに乗って家をでた。その足で実家へ行き、少し一人で旅にいくと告げると両親は激しく動揺する。そんな両親を尻目に彼女はハンドルを西へと切った。
心は空虚だった。誰も自分を判ってくれない。虚ろな表情のまま車を走らせていると、とある田舎町でヒッチハイクをする青年キルギャノン(ジェームス・カーン)を拾う。
逞しい体つきの若者で、大学でフットボールの花形プレイヤーだと言う彼だが、どこか妙な雰囲気があった・・・
人妻の精神的歪みをメインに描くアメリカン・ニュー・シネマの秀作の一本。
恋愛の末に結婚し、ごく普通で真っ当な生活を送っていた人妻。そんな彼女が妊娠したことから、先行きに急に不安に感じ、絶望的にブルーな気持ちになる。
そして選んだのが、『ひとりになれる時間』。女性なら共感しやすいのかもしれないが、男性からすればまったく理解しがたい思考と行動である。
しかも彼女が考えるのは「自分のこと」だけなのだ。そこも『個人』が優先されるアメリカでは当然の発想なのだろう。
しかし、本作はそういった男性から見れば、簡単に感情移入できないスタートを切りながら、画面から眼が離せない、はかなくも切ない展開を見せていく。
自分で家出しておいて、電話ボックスから長距離で、しかも先方払いで亭主に電話を入れ、自分の感情と正当性をぶつける。当然、亭主は狐につままれた態での対応しかできない。
そこでも『一個人』としての彼女の虚ろさが際立つ。そんな彼女に、ふと浮気心が芽ばえ、逞しい青年を車に乗せる。
ここからが本作の白眉の展開となる。彼は、花形フットボール選手だったが、頭を負傷し、「少年」に戻ってしまっているのだ。素直で朴訥で純情。しかし、彼自身は自分が年相応の精神から逸脱してまったことを知らない。
自分が大金を貰って、大学からだされたのは友達が皆、僕が好きだから金をくれたとしか理解できない。
そんな彼は、かつての恋人の父親が、何かあったら訪ねて来い、仕事をやると言った言葉を鵜呑みにし、ウエスト・ヴァージニアに行くんだ、と素直に言う。
一方で、一晩の浮気相手として拾った人妻は、すべてを一瞬にして悟ってしまう。
実に切ない展開にシフト・チェンジして進行していくのだ。あまりにも素直すぎて、何度か見捨てようとするが、それが出来ない人妻。身勝手でありながら妊娠したことにより目覚めた母性。そのことに気付きながら揺れる自分との葛藤。
映画はやがて、様々な人物が絡んできて、胸の締め付けられる展開となって行く。
本作製作にあたり、コッポラ監督はごく少数のスタッフとキャストで実際に進行通りに旅をして、何かインスパイアされる事象に出会うとその場でカメラを回し、演技させるという即興作劇を取り入れた。
そのどのシーンでも、見事な現場の空気感と登場人物たちの空虚感と虚無感が漂う。
完全な低予算作品であるが、後に天才監督と称されるコッポラの素晴しい感性がこちらの胸に突き刺さってくる。
主要キャストであるシャーリー・ナイトもジェームス・カーンも絶句するほど素晴しいが、特に終盤での重要な鍵を握る白バイ警官役のロバート・デュヴァルは本作で有名になり、以後コッポラ作品の常連となっていったのは周知の事実。
原題の「Rain People」とは、劇中で青年がつぶやく「雨人間」のことである。「泣くとその涙で溶けていく人間たち。それでいて女性は美人だし、男はハンサムな奴しかいない」。
非常に印象深いタイトルである。「アメリカン・ニュー・シネマ」を理解しようとすれば、避けて通れない作品にして、象徴的な一本でもある。
個人的にはアメリカ映画の歴史に名を刻むべき秀作であると確信している。